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インタビュー 天龍源一郎

米国で本物の「ショービジネス」学んだ 

「ガチ!」BOUT.104

 

日本を代表するプロレスラー、天龍源一郎。角界出身でありながら「ミスタープロレス」とまで呼ばれた不世出なレスラーの歴史には若手時代の壮絶 な アメリカ修行があったー。濃密な時間を過ごしたアメリカへの思いから、自身の引退、そして在米の日本人へのメッセージまで、熱く語った60分。30代後半 以降の在米日本人男性全てに贈るガチ特別編「アメリカが青春だった頃」。(新宿FACE試合前の控え室にて)(聞き手・高橋克明)

プロレスで海外修業に行かれる前に、ご自身で渡米されたことはあったのでしょうか。

天龍 相撲の付け人時代に、ハワイくらいですね。まぁ、言葉は本当にジス・イズ・ア・ペンくらいですよ。僕は相撲の世界にいながらアメリカ映画が好きなちょっと変わった相撲取りだったんで、自分なりには妙に英語が好きだったんですけど、ただ実践ではね、全然(通用しなかった)。

全日本プロレスから最初に海外修業に送り出されたのが1976年。天龍さんにとっては、そのアメリカ遠征がご自身にとって非常に大きな転機になったとのことですが。

天龍 決して恵まれたアメリカ(修業)時代じゃなかったからこそ、逆に印象に残ってるんですよ。言葉もしゃべれないところから急にポンって行かされて全て自分でやらなきゃいけないスタートでしたから。テキトーに練習に入れられて、終わったらそのままほったらかしで。テレビ見てても、あ、これ日本で見たことある映画だよって思っても言葉が分からないからチャンネル変えてって感じですよね。

言葉でまず苦労された、ど。

天龍 レスラー同士が控え室とかで話してても中に入っていけないし、話したい時は辞書を持って指差したり。今なんて言ったの? って、それで英語を少しずつ覚えて。「嘘(うそ)」って単語の「lie」ってあるでしょう。あれを知らずにレスラー同士でよく使っていた「Bullshit !」って言葉を「嘘」って意味だと覚えちゃって。一般人の集まりでも「Bullshit !」って連発して周りに「えっ」って引かれたのを覚えてますよ(笑)。そんな言葉しか知らなかったです。

確かに日常会話ではあまり使っちゃいけない言葉ですね(笑)。それ以外では割とすんなりアメリカ生活にもなじめたというか。

天龍 僕はプロレスに対してもアメリカに対しても何の予備知識もなかったんですよ。13(歳)から26(歳)までの人間形成の時期に相撲という特殊な業界にいましたから、ちょっと偏った部分はありましたよね。いや、だいぶ偏ってましたよ、本当に(笑)。その分、逆に何の躊躇(ちゅうちょ)もなく入っていけましたよ。

渡米前と印象は変わりましたか。

天龍 でも最初に行った時から、これがアメリカか、っていう漠然とした希望みたいなものはありましたね。なんていうのかな。アメリカっていうのは何かしら“Something New”ですよね。日本にはないかもしれない日々を過ごしていけるかもという。んー、何か希望を与えてくれるというかね。一生懸命突き進んでいけば、何かとてつもないものにぶち当たるだろうという可能性を、漠然と思わせてくれるところではありましたね。まあ、言葉も習慣も違ってる中、ちっちゃな可能性かもしれないけれど、でもそれに向かっていく自分が好きでしたね。

天龍さんにとってアメリカの水は合っていた、と。

天龍 合ってましたね。だから最初は、ここで苦労して頑張れば日本に帰ったらなんとかなるという気持ちでやってたんですよね。根拠なんて何にもないんですよ、日本で居場所があるわけでもなかったです。だから結局、日本に帰ってきても、何にも実らなくて、またアメリカに逃げ帰る。で、アメリカに何があるかっていうと、ほんと最低の生活しか待ってないんだけど、でもそれを寄りどころにまた戻ってきて。

むしろアメリカの方が合っていた感じですね。

天龍 だからもう、日本に帰ったってしょうがないから、このままアメリカにいようかなって思った時もありましたね。でもね、(先輩のザ・グレート・)カブキさんにこのままアメリカに残ろうと思ってんですよって話すと、「言葉も分からないうえに、そんなしょぼい試合で食っていけるわけないじゃない」ってハッキリ言われて。住む分には心地いいし、3カ月先なら分かるけど、半年先の生活が読めないって感じだったんだと思います。でも、もう日本に対しては斜に構えてましたし、アメリカにいると素直になれてたし、不思議ですよね。「異国の地にいる天龍」を誰かがどっかで見てくれている、正当に評価してくれているって希望みたいなものを持ってたと思うんですよね。ないんですよ、そんなこと(笑)。ただ、思い込むようにしていたのは、今考えれば日本に対する反発心だったのかもしれないですよね。だから、もしあのまま全日本(プロレス)から(帰国命令の)電話がなければ、そのままアメリカ人と結婚してグリーンカード取って残ってたかもしれないですよ。その可能性はありましたね。

アメリカで得た最大の収穫は天龍さんにとって何だったんでしょう。

天龍 結局、今になって思うと、要するにプロレスはお客さんがいて初めて成り立つ職業だということが、体の奥にインプットできたっていうのはありますね。言葉にすると「ショービジネス」って簡単だけど、やっぱりそこは(当時の)日本人が言ってた「ショービジネス」と僕がアメリカで実際に体験した「ショービジネス」には違いがあると思いましたね。いい加減でおざなりでも「ショービジネス」って成り立っちゃうじゃないですか。そうじゃなくて、やっぱり高いお金を払って見に来るお客さんに満足して帰ってもらう。それが成り立って初めて本当の意味での「ショービジネス」だと思うんですよね。俺自身に、そう理解させてくれたのがアメリカだったと思いますよ。今考えればね。最初にアメリカのプロレス会場入って、そこにいた観客を見た時に「あ、プロレスってなめたもんじゃないな、そこそこでやっちゃいけない職業だな」と思わされたんですね。やっぱり「ショービジネス」を見続けてきた観客がそこにいたと思うんですよ。例えば、いいレスラー(善玉)は右側(のゲート)から入場してくる。悪いレスラー(悪役)は左側から入場してくる。前日、右側から入ってきた時は拍手喝采だったのに、翌日、左側から入ってきたらいきなり帰れコールのブーイングになってて。「おい、おい、同じ俺が昨日あっちから入ってきたじゃねえかよ」って(笑)。

ショーの楽しみ方を分かってる観客だったと。

天龍 すごい観客だなぁって打ちのめされたっていうのかな。ショービジネスに対する厳しさっていうのを、あからさまに突きつけられましたよ。「どうするんだよ、天龍源一郎」ってね。日本の観客だと「しょうがねえなぁ天龍」と思っても、「まぁ、頑張った、頑張った」で拍手をもらえたんですよ。でもそのへん、アメリカは徹底してましたね。

当時は人種差別もあったと思うのですが。

天龍 30年くらい前の南部でしたからね。それこそ試合会場では毎日のように「ジャップ!」「リメンバー・パール・ハーバー!」なんて(罵声を)浴びせられてましたよ。でもね、なんていうのかな、差別はあったことはあったけれども、日本人でもいい試合やれば興味を示してくれるし、試合後にサインをもらいに来てくれる。だからこっちは上手(うま)くなってやろうと思う。で、上手くなったら、受け入れてくれるアメリカ人のスタイルっていうのは僕はすっごい心地よかったですね。そんなアメリカ人の感覚は好きでしたね。

1970年後半から80年代にかけて全米各地、プロレスは非常に盛り上がっていた時代ですよね。

天龍 アメリカのプロレスが最盛期のころですね。リック・フレアーに(リッキー・)スティムボート、ニューヨークには(ハルク・)ホーガンもいましたしね。テリトリーはフロリダからジョージア、ノースカロライナからミネアポリスと全米各地にありましたよ。プロレスは盛んでしたね。

ただ、天龍さんの「痛みの伝わるプロレス」は、アメリカ人レスラーには、普通、嫌がられるんじゃないかと思ったりもするんですが。

天龍 嫌がってましたよ、実際(笑)。バトルロイヤルで二、三十人がわーってやってる中、コーナーでバッシバシ、(本気の)チョップ入れてましたから。お客なんて誰も見てないのに(笑)。このバカヤローって相手に言われましたのを覚えてます。

(笑)。その中でもニューヨークの印象はいかがでしたか。マディソン・スクエア・ガーデンや、当時は(ブルーノ・)サンマルチノや…。

天龍 いやぁ、やっぱりニューヨークといえば、当時のレスラーみんなが行きたかったところですよ。レスラーじゃなくても1回は住んでみたいところじゃないですか。でもね、僕らはサウス(エリア)でしか住んでいませんから、ニューヨークっていう大都会でどう生活すればいいのか、ちょっと引け目もあったかな。あのね、面白い話があって、ジャンボ鶴田がニューヨークに来た時、彼もそれまでネバタやテキサスでしか(住んで)いなかったんですよ。で、彼がウエスタンブーツ履いて、ウエスタンシャツ来て「ハァ~イ!!」って控え室に来た時、ニューヨークの人間に「なんだこいつ?」って白い目で見られてね。あとでジャンボが僕に「ニューヨークはみんな冷たいんだよ」って(笑)。「テキサス戻ったらみんな温かくてホッとした」って。確かにね、テキサスの人たちって荒っぽいけど義理堅いところがあって、すごくいろいろ面倒見てくれましたから。僕も(全米)いろいろ回って、ニューヨークにも行って、で、テキサス戻ってきてホッとしたのを覚えてますよ。だからもし、一番最初に行った場所がニューヨークだったら、すぐに日本に帰りたくなってたかもしれないですね。ひょっとしたらね。

面白い話です。そして天龍さんは現在61歳。いまだ現役で激しいプロレスを展開しているわけですが、最後にご自身のエンディングについてもお聞きしてよろしいでしょうか。

天龍 僕は自分のエンディングって考えたことないですね。まぁ、カッコつけた言い方かもしれないけれど、「今日、一生懸命生きたら、多分、明日は来るだろう」って考え方なんですよ。「今日」のことしか考えてない。それこそ、アメリカにいたころの考え方そのまんまです。みんな明日があるから今日加減するんですよね。明日も来るし、明後日も来るし、1カ月後も必ず来るから、その日のために力を蓄え、出し惜しみしようと考えるのかもしれない。僕の人生は「ここまで好きなことして生きてきちゃったんだから、今日、目いっぱい生きて、それが明日につながったらいい」っていう、そんな感じですね。明日があるから今日セーブしようなんていうのは僕の中にはないんです。今日は今日なりの天龍を見てもらって、明日の天龍を見た時に「年取ったなぁ」と思われたら、それはそれで仕方ない。そのまんまですよ。だから若い人たちに言いたいのは「今日がいいものじゃなかったら、明日は多分来ないよ」ってことですよね。

最後に在米の日本人にメッセージをお願いします。

天龍 多分、アメリカに住んでいたら嫌なこともあるかもしれないし、日本に帰りたいと思うこともあるかもしれない。でも、あなたが今そこにいるのは、あなたの気持ちで決めたわけだから。家族や友人に行かないでくれよって反対された人もいるかもしれない。それでも自分の気持ちに正直になってアメリカに来たわけだから、今も自分の気持ちに正直になって生きた方がいいと思いますよ。右を選んだ人間もいるのに、左を選んだ自分がいる。だったら行くしかないでしょう。それにブロンドの姉ちゃんとつき合えるかもしれないじゃない(笑)。それだけでも人ができないことをやってるわけだし、一生懸命いろんなこと消化してエンジョイしてほしいですね。その時にキツイ方を選んだ自分がいるんだから。

天龍源一郎(てんりゅう げんいちろう)

職業:プロレスラー

1950年福井県勝山市生まれ。63年に13歳で大相撲の二所ノ関部屋入門。26歳の時、電撃的にプロレスに転向、全日本プロレスに入団する。米国ファンク道場で修業し、同年11月、髷(まげ)を付けたまま、テキサス州ヘレフォードにてテッド・デビアス戦で米国デビュー。84年2月蔵前国技館でUNヘビー級王座を初戴冠、以降ジャンボ鶴田とのタッグ、鶴龍コンビで活躍。87年6月全日マット活性化のための意識革命を宣言し天龍同盟を結成、89年6月5日には日本武道館でジャンボ鶴田を破り三冠統一ヘビー級王座を獲得、同年11月タッグ対決ながらジャイアント馬場からのピンフォールを奪うなど、常に全日マットの先頭を走り続けた。現在も現役プロレスラーとして活躍。芸能界にもファンが多く、たびたびメディアにも登場している。公式サイト:www.tenryugenichiro.com

 

〈インタビュアー〉
高橋克明(たかはし・よしあき)
専門学校講師の職を捨て、27歳単身あてもなくニューヨークへ。ビザとパスポートの違いも分からず、幼少期の「NYでジャーナリスト」の夢だけを胸に渡米。現在はニューヨークをベースに発刊する週刊邦字紙「NEW YORK ビズ」発行人兼インタビュアーとして、過去ハリウッドスター、スポーツ選手、俳優、アイドル、政治家など、400人を超える著名人にインタビュー。人気インタビューコーナー「ガチ!」(nybiz.nyc/gachi)担当。日本最大のメルマガポータルサイト「まぐまぐ!」で「NEW YORK摩天楼便り」絶賛連載中。

 

(2011年9月24日号掲載)


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