藤波辰爾

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僕のキャリアは全てニューヨークから始まっているんです

「ガチ!」BOUT.208

 

藤波辰爾

 

1971年のデビュー以降、今も現役プロレスラーとして活躍する藤波辰爾さん。米国での海外修業時代では、世界最大級のエンターテインメント団体とされる「WWE(World Wrestling Entertainment)(当時WWF)」でジュニア・ヘビー級王座を獲得。帰国後は、空前の「ドラゴンブーム」を巻き起こし、日本のプロレス界の立役者となる。今回、WWEの殿堂入りを果たし、記念式典に出席するため来米した藤波さんに、お話を伺った。(聞き手・高橋克明)

 

WWE殿堂入り、式典で来米

WWEの殿堂入りおめでとうございます!

藤波 ありがとうございます。(ニッコリ)

僕たち在米の人間からするとWWEがどれだけスゴい団体か明らかですし、何より、あの(アントニオ)猪木さんに続いて日本人として2人目の快挙というのが素晴らしいですね。

藤波 もう一つは現役としては初めて選ばれたっていうのは大きいでしょうね。通常、ああいうものは引退した後に贈ってもらうものだと思うけれど「ホール・オブ・フェーム」っていうのが、単なる功労賞的な意味合いでだけではなく、今後の、プロレス界にとっても大きな役割を担う意味も込められていると思っています、はい。

サンノゼで行われた式典に出席された際のお気持ちはいかがでしたか。

藤波 最初は軽い気持ちでいたの。それが自分たちが想像していた以上の豪華なセレモニーで、アカデミー賞よりも大きな規模だったから、度肝を抜かれたっていうか。(笑)

全世界にもテレビ中継されました。

藤波 それってね、結局、全世界に向けて、レスラーという職業の人を表に出すっていうのかな。この国のレスラーをリスペクトするところだと思うんですよ。見習うべきところでもあるよね。もともと、日本でもあったそういったものが時代が変わって、今は世界の中でも(レスラーに対するリスペクトが)低いんですよ。やっぱり今、自分たちがここにいるのはかつての先人たちが築いてきたものの上に成り立ってそこにいる。そういうものも今回、思い起こさせてくれたよね。だってセレモニーだけで有料のお客さんが1万5000人ですからね。試合ないんですよ。(笑)

WWEの最大のイベントである、あのレッスルマニアの前日に行われるくらいな式典ですから。

藤波 それだけのお客さんを前にした時に、これどうしたもんかなって、セレモニーが近づくにつれて、足が本当にね、久々に震えましたよ。(笑)

試合以上に。(笑)

藤波 いろいろな大舞台で場数は踏んでいるけれど、表彰式が全世界に流れるっていうのはね(笑)。これはヘタできないなって。

しかも英語でスピーチされました。

藤波 いやぁ緊張しましたよー! もうね、学生時代、もうちょっとちゃんとやっとけばよかったなって(笑)。自分の順番が近づいてくるとね、どっか逃げ出すとこあれば、逃げたかったもん。(笑)

特にアメリカのプロレスラーってマイクパフォーマンスもうまくて…。

藤波 うまい! でも彼らは母国語だからね(笑)。だから僕は言葉も人種も違うけど、短くてもいいから自分の言葉で伝えた方がいいんじゃないかって思ったんですよ。通訳をつけようと思ったらいくらでもいるじゃないですか。実際、猪木さんの時は通訳を通したらしいんですけど、でも人種は違っても、完璧じゃなくても、やっぱり僕は自分の言葉で伝えたかった。

非常に好評でしたね。

藤波 控え室に戻ったら、他の受賞者から、選手から、もうスタッフ全員、拍手で迎えてくれましたね、はい。

今、世界で活躍しているプロレスラーにとっては藤波さんは「レジェンド」なわけで…。

藤波 トリプルHも、ジョン・シナも、ビンス・マクマホンも、僕を見るなり、持っているかばんをそこに置いて、こっちに走ってきて両手で握手してくるからね。(笑)

あのトリプルHが。(笑)

藤波 多分、今の(若いプロレスファンの)子たちには信じられないでしょ(笑)。トリプルHが「来てくれて、ありがとう」「Congratulations !」って、両手で藤波の所に寄っていってるよって(笑)。僕は1971年にデビューして、78年にこちらに来てるから。今のロック(ドウェイン・ジョンソン)やランディ・オートンの彼らのお父さんと僕らは試合してるからね。

ロック様のお父さまと。(笑)

藤波 そうなんですよ。僕たちがロッキー・ジョンソンと試合してた時に、彼は子供連れて会場に来てたもん。それが今のロックでしょ。

あははは。

藤波 ロックも、ランディ・オートンもあんなスーパースターになったけど、そのころのことがインプットされてるから、そりゃ僕の顔見ればすっ飛んできますよ(笑)。だから日本のファンには僕のことを見直せとかそういうことじゃなくて、かつての日本のプロレスはそれだけのものだったんだよっていうことを彼らの仕草を動作を見せて感じてほしいっていうのはありますよね。

今回はあの(アーノルド・)シュワルツェネッガーとも同時の受賞でした。

藤波 そうそうそう。同じ時の受賞だからいい記念ですよね。舞台裏で少し話しました。ちょっとしたご褒美だったね。

今後の日本のプロレス界にとっても今回の受賞は非常に大きな意味を持ちますね。

藤波 現役で40数年やってきて、ああいった形でたたえてもらうと、もちろん報われた気持ちにもなるし、これは僕だけじゃなくて、今いる若いレスラー仲間たち全員の励みにもなると思うんです。自分たちも必死でやれば後々、希望というか、光というか、そういったものにはなったんじゃないかな。

自分のこと以上に「後進のレスラーたちの励みにもなる」とおっしゃるところが藤波さんらしいというか…。

藤波 そう?(笑)

長州(力)さんや、天龍(源一郎)さんからはそんなセリフ出てこない気が…。

藤波 あははは。そうかもしれないね(笑)。でも本当に今回の受賞は、日本でもまた違った意味で浸透するんじゃないかなって。僕が今回、受賞したことによって、今後も日本人が挑戦しやすくなったと思うんだよね。手は届くもんなんだよって。

そして、ニューヨークという街は藤波さんにとっても、出発点となった場所だと思いますが。

藤波 (さえぎって)振り返ってみると、僕は僕のレスラー生活も、僕の今いる立場も、全部、ニューヨークから始まっているんですね。だから、そういう意味でも今回(のWWE殿堂入り)は感無量ですね。

78年のマディソン・スクエア・ガーデンでのタイトル奪取は僕は小学生の時だったのですが、田舎のテレビで観戦したのを今でも覚えています。今、藤波さんとマディソン・スクエア・ガーデンの真裏のホテルで取材させていただいているのが感無量です。

藤波 (指さしながら)昨日、行ってきましたよ。ニューヨークに来たら必ずマディソン(・スクエア・ガーデン)のぞくんですよ。やっぱりあそこが自分の出発点だからね。今回は家内も息子も連れてきたんで、息子に実際のマディソン・スクエア・ガーデンを見せたかったんでね、昨日連れていきましたよ。

景色は当時と変わって見えましたか。

藤波 変わってますね。今回初めてマディソン・スクエア・ガーデンのツアーに参加してきましたよ! 見学ツアーがあるなんて知らなかった。何度もあそこのリングに立ってるんだけど、今回初めて観客席から見下ろしました。フロアにも出て、ドレッシングルームにも行ったんだけど、全部変わっちゃってるよね。でも…原点は原点ですよ。

今年で現役43年。同世代の(ジャンボ)鶴田さんはもう亡くなって、天龍さんは今年11月に引退が決定しました。藤波さんはご自身の引退についてはどうお考えですか。

藤波 はい、僕はね、今回、せっかく現役でこういう賞をいただいた以上は、やはり体力が続く限りはリングに上がりたいって思ってます。プロレスって全世界にあるわけで、それはその時代時代の偉大な先人たちの功績があって続いたものだし、僕もこのスポーツの良さを次の世代に伝えていきたい。それが自分にとっての使命だと思うんですね。うん、だから、体力が続く限り。僕に引退はないです。

そして先ほどお話に出たご子息のLEONA選手がデビューしました。レスラーとして藤波辰爾を父親に持つというのはかなりのプレッシャーも同時に持つと思うのですが、父として先輩として彼に期待していくところはなんですか。

藤波 今度大学4年になるのかな。デビューは一応しましたけど、まだまだね、うん、まだまだ道のりは遠いですよ。まだ数試合ですから、これからでしょうけど、なんていうのかな、ショートカットはしてほしくないんですね。“そこ”にたどり着くために、どんなことでもいい、とにかくいろんな物をいろんな形でどんどん吸収していってほしいって思うね。手は抜くなって言いたいですね。

ニューヨークで成功した日本人として、今現在ニューヨークに住んでいる日本人にアドバイスをいただけますか。

藤波 いやいや、アドバイスだなんて、僕たちよりずっと頑張っている方はいっぱいいるでしょうし。でも、やっぱり“日本人ここに有り”じゃないけど、この国で大きな夢をつかんでほしいなって思いますね。この国って、自分が頑張れば頑張っただけどこかで誰かが見てくれる、そういう国だと思うんですよ。まさに“アメリカンドリーム”を実現してほしいなって思いますね。

藤波辰爾

 

★ インタビューの舞台裏 → ameblo.jp/matenrounikki/entry-12018223577.html

 


藤波辰爾(ふじなみ・たつみ)

職業:プロレスラー
1953年生まれ、大分県東国東郡出身。70年6月、16歳で日本プロレスに入門。翌年5月9日デビュー。72年3月、新日本プロレス旗揚げ戦に出場。同年12月の第1回カールゴッチ杯で優勝を果たし、75年6月に海外遠征へ出発。カール・ゴッチ氏のもとで修行を積み、78年1月にWWWFジュニア・ヘビー級王座を獲得した。同年2月に帰国、空前のドラゴンブームを巻き起こし、ジュニア戦線を確立。ヘビー級転向後は、数度にわたるIWGPヘビー級王座、タッグ王座の戴冠、G1優勝等、新日本プロレスのエースとして活躍。99年6月より5年間にわたり新日本プロレス社長を務めた。2006年6月30日付で新日本を退団し、同年8月に「無我ワールドプロレスリング」を旗揚げ。08年1月より団体名を「ドラディション」に変更した。DRADiTION公式サイト:dradition.jp/

 

〈インタビュアー〉
高橋克明(たかはし・よしあき)
専門学校講師の職を捨て、27歳単身あてもなくニューヨークへ。ビザとパスポートの違いも分からず、幼少期の「NYでジャーナリスト」の夢だけを胸に渡米。現在はニューヨークをベースに発刊する週刊邦字紙「NEW YORK ビズ」発行人兼インタビュアーとして、過去ハリウッドスター、スポーツ選手、俳優、アイドル、政治家など、400人を超える著名人にインタビュー。人気インタビューコーナー「ガチ!」(nybiz.nyc/gachi)担当。日本最大のメルマガポータルサイト「まぐまぐ!」で「NEW YORK摩天楼便り」絶賛連載中。

 

(2015年5月2日号掲載)

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