【連載】おばあちゃま、世界を翔ぶ-1 少女のころの夢はピアニストかドクター

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龍村ヒリヤー和子〜情熱とコンパッションの半生記〜

おばあちゃま、世界を翔ぶ 龍村ヒリヤー和子

第1回 戦争、ピアノ、興行主になるまで

私の人生の話をするんだったら、せっかくですから、戦争の話でもしたらいいんじゃないかしら。今では世界中を飛び回っているから想像がつかないかもしれないけれども、第2次世界大戦を体験しているのよ。

幼稚園の思い出

私は、第2次世界大戦の始まった年に兵庫県宝塚市で生まれ、厳しく育てられました。幼稚園の時、ガキ大将の男の子がみんながブランコの順番を待っているのにそれを押しのけて、最初に乗ったのを見て、すぐその子の両手をつかんで、死んでもはなさないと頑張る、そんな女の子でした。その男の子が私の手を離せなくて泣いていると、園長先生は男の子を叱らずに、「女のくせに何をする」と私を叱りました。女であることは卑下されるだとその時初めて知ったんです。

そのころは幼稚園で新しい歌を教わると、すぐに帰って、家のピアノの椅子によじ登って、鍵盤をさぐりながら弾き、それに気持ちのよいハーモニーをつけました。ピアニストになることを夢見ていました。

戦時中の寄宿舎生活

6歳の時、厳格な家族の方針で、山の上にある寄宿舎制の小学校に入学しました。侍気質を育てる天皇崇拝の神道系の学校で、日の出の1時間前に起きて、草履で山の上へ駆け上がり、教育勅語を暗唱し、ご来光に感謝して、山を下りる。そんな朝を毎日過ごしていました。

食べる物も十分にない時代で、朝粥(がゆ)に山で採れる山菜とひえ、粟、お昼は、大豆のいり豆を自分の年に一つ加えて七つ、100回噛(か)んでゆっくり噛んで食べる、貧しかったけどおいしかったですよ。

花火のようだった大阪大空襲

週末は毎週帰省するので、その日も母と男衆(おとこし)さんが迎えにくるのを待っていたのですが、この日は夕方になっても来なく、私は夕焼けを見て涙をぼろぼろ流して、泣き寝入りする形で眠りについたら、深夜に二人がやっと来ました。どうして二人が遅くなったのかそのすぐ後に知ることになるんだけど…。

男衆さんにおぶられて、山を下りる途中、大きな爆撃があってね、B29(米国の爆撃機)が無数に目の前をバーっと走って、大阪市の方を見ると、街全体が焼かれいく様が目の前で繰り広げられていたの。小さかったので、何が起きているのか全く分かっていなくて。花火みたいできれいだなあ、と思いながら見ていたんです。それが米軍による大阪大空襲でした。市内では夜の11時57分から午前3時25分まで、3時間半にわたって無差別爆撃が行われたそうです。辺りは暗くなっていたけれど懐中電灯を付けたら、そこに人がいるということでまた爆撃されてしまうから、真っ暗な中で山を下りてね。心細いから皆で歌を歌いながら帰りました。電車も止まっているので、被害のない宝塚市に向けて線路上を夜中中歩き、家にたどり着いたのはお昼過ぎでした。午後になると大阪から親戚の人たちが私の家にたどり着きました。いとこも死んで、皆爆撃を受けて、足を引きずり、体のあちこちに傷を負って、家も焼けてしまって。自分の家族がそんなことになっているのに、山の上からきれいだなぁと見ていたなんてね。たくさんの人が死んでしまっていたのに、まだ小さくて戦争の怖さを知らなかったのね。

ボストンで気付いた「井の中の蛙」

戦争中は、ピアノなんて教えている人もいなくて。戦後数年たってやっとピアノが習える時代がきて、8歳くらいだったかしら、ついにピアノを始めました。

小さいころからピアニストかドクターになりたくて。ドクターにはどうなったらいいか分からなかったから、ピアニストになろうと。中学高校は音楽一色、東京の音楽大学、桐朋学園に入学しました。小澤征爾さんと同じクラスにいましたよ。

日本を出ることにずっと憧れがあって、どうしても外国に行きたくて卒業後すぐ、1961年にボストン・シンフォニーに呼ばれ、単身でボストンに来ました。でも来た途端に自分は「井の中の蛙(かわず)」だと気付いて、これはもっと優秀な人のお世話をしたり、文化交流やお仕事をお手伝いしたほうがいいなと。それで67年、国際興行主としての仕事を始めることにしたのです。

そこから24年間、いろいろ面白いことをやりましたが、最も面白かったことの一つは歌舞伎の米国公演かしら? 次は歌舞伎の話をしましょうね。(次回は9月23日号掲載。来月からの掲載は毎月第1週目と第3週目)

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龍村ヒリヤー和子(たつむら・ひりやー・かずこ) 東洋医学医師、人道活動家、Gaia Holistic Inc代表。
兵庫県宝塚市生まれ。音楽家にあこがれ幼少時よりピアノに親しみ、桐朋学園大学を卒業するが、1961年に渡米しボストン大学・ニューヨーク大学を卒業後、音楽家ではなく国際興行主としての活動を開始、グローバルな舞台芸術と文化交流の先駆者なる。世界各国の首脳やセレブリティーが関わる歴史的記念イベントの制作・演出などにも関わり、公式な外交関係のない国家間の文化交流促進にも寄与するなど多大な貢献を重ねてきた。世界中で毎年1年2000回のプロデュースを手掛け、148カ国以上を訪れ、何度も表彰されている。
2000年より東洋医学の医師に転身、01年ガイア・ホリスティック・サークルを設立し代表に就任、07年には出版社「心出版」を立ち上げる。世界各地の避難民、戦争犠牲者、ホームレスや家庭内暴力の犠牲者などの救済を行うなど人道的活動においても多大な貢献を続けており、世界各地での慈善事業に従事する他、チベット仏教の最高指導者ダライ・ラマ14世と共にチベット孤児の教育活動に従事している。遠赤外線温熱療法にテラヘルツを組み合せた独自なホリスティック療法は世界的に評価されている。今は世界の会議から招待され、発表、教育をしている。
01年、9・11の米同時多発テロ悲劇のすぐ後にガイア・ホリスティック基金を創設。「212-799-9711まで、お電話ください。感謝合掌 和子」

(2017年9月16日号掲載)

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