【連載】おばあちゃま、世界を翔ぶ-2 演目選び、プロモーション、花道の工夫まで仕切る

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龍村ヒリヤー和子〜情熱とコンパッションの半生記〜

 

(左から)筆者と梅幸さん

(左から)筆者と梅幸さん

 

第2回 「米国史上初の大歌舞伎公演 NY、シカゴ、LA」苦難と成功

NY公演を提案

1967年、文化交流の仕事をしようと思い立った頃に新安保条約が署名されたので、日米交流事業にはきっと補助金が下りるなと思い、外務省へ行ったんです。現在の国際交流基金の前身の国際文化振興会に歌舞伎をそのままニューヨークへ持っていって公演をする提案をしました。でも案の定、私の提案を他の大きな会社に持っていってしまわれ、だけど、他から断られたようで最終的には私のところにぎりぎりのタイミングで戻ってきました。これも悔しかったけれどありがたく受け入れました。しかし条件はとても厳しいものでした。

交渉でボスがバレた

当時、松竹の永山社長と元大使と交渉したのですが、それがものすごく面白かったんですよ。当時は日本人の女性が説明しても信用してもらえないことは当然でしたので、アメリカ人男性を二人連れて行ったんです。プレジデントとディレクターとかなんとかって肩書を付けて名刺まで作って、私はマネジャーさんのふりをして(笑)。本当は私がボスなわけですが、それを隠して交渉しました。その時、妊娠していておなかが大きかったのも隠してました。結局は、初日に岸(信介)首相もいらして外務大臣から、あいさつしたいからと英語での私の肩書を聞かれて、その時、結局バレちゃったんですけれどね。私が全部仕切っていたってことが。(笑)

「熊谷陣屋」が大当たり

歌舞伎はトータル芸術です。歌(Music)、舞(Dance)、技(Acting)。歌舞伎の踊りを披露する公演はそれまでにもあったのですが、お芝居ありでのニューヨーク公演はこれが初めて。私が持ってきたかったのは歌舞伎の名作「熊谷陣屋」だったのだけど、これが義経の暗示を理解する家来の熊谷、そして主に対する絶対の忠実の魂、そして二人の母の愛情…。天皇の子、敦盛を助命するために自分の息子を身替りにして首を渡すというすごい話だったから、永山さんは猛反対で…。でも私はギリシャ悲劇など、重いストーリーでも理解される素地は米国にはあるし、私はこんな時こそ日本の心を知らせたいと説得して押し切って上演するに至ったのね。そしてこれが結果大当たりしました。役者さまたちは、松緑、梅幸、菊之助(現・菊五郎)、辰之助と連日素晴らしい熱演で、観客も泣いていました。

広告は独自の発想で

チケット販売では苦労しました。日本びいきの人たちに3000~4000枚は良い席からすぐに売れたのだけど、そこでピタッと止まって。でも残り3万枚くらいあって、元主人の当時13歳だった息子に、「若い人に来てほしいんだけど」と相談すると、「そんなゴージャス・コスチュームとかきれいな踊りとか音楽とか僕たち誰も行かないよ」と言われて。それでどうしたら良いかいろいろと考えて、瞑想中にひらめいて大変費用が掛かるけれど思い切ったことをしました。そのころ若者に人気のあった「ヴィレッジボイス」という新聞に1ページ全面広告で、歌舞伎の隈取りの模様だけをバーンと敷いて、「Trip to the City Center ?」(シティ・センターへトリップ?)とだけ文字を入れました。ロックのラジオ局でもCMを打ちまして、歌舞伎の音楽だけを流し、「Trip to City Center ?」とだけ言うCM。

あっという間に完売

これらをやってみたら「和子さん、見に来てください!」って劇場から電話が来て、行ってみたらボックスオフィスに長蛇の列ができていたんです。「トリップ」という言葉には「ハイになる」という意味もあるので、どうやらこれをヒッピー文化の若者たちが面白いと思ったらしいですよ。今度は売れなくて困っていた安い席から順に売れていき、あっという間に2週間分が全部売り切れました。

初めて同時通訳を使う

内容が分からないと意味がないと思ったので同時通訳を雇いました。今でこそ歌舞伎の公演で同時通訳は普通ですが、当時使ったのは私が初めでした。後で同時通訳の男性には日本で賞が与えられたのですが、私には何も無くてね。ニューヨークでは無経験の女性なのによくやった!と評論家たちが書いてくれましたが、日本では日本人女性の偉業として評価しませんでした。私はこの歌舞伎公演は命掛けで取り組みました。日本女性への今でも根強い低評価が変わることをいつも願っています。感謝合掌。

(この連載は毎月第1週目と第3週目に掲載。次回は10月7日号掲載)

◇ ◇ ◇

龍村ヒリヤー和子(たつむら・ひりやー・かずこ) 東洋医学医師、人道活動家、Gaia Holistic Inc代表。
兵庫県宝塚市生まれ。音楽家にあこがれ幼少時よりピアノに親しみ、桐朋学園大学を卒業するが、1961年に渡米しボストン大学・ニューヨーク大学を卒業後、音楽家ではなく国際興行主としての活動を開始、グローバルな舞台芸術と文化交流の先駆者なる。世界各国の首脳やセレブリティーが関わる歴史的記念イベントの制作・演出などにも関わり、公式な外交関係のない国家間の文化交流促進にも寄与するなど多大な貢献を重ねてきた。世界中で毎年1年2000回のプロデュースを手掛け、148カ国以上を訪れ、何度も表彰されている。
2000年より東洋医学の医師に転身、01年ガイア・ホリスティック・サークルを設立し代表に就任、07年には出版社「心出版」を立ち上げる。世界各地の避難民、戦争犠牲者、ホームレスや家庭内暴力の犠牲者などの救済を行うなど人道的活動においても多大な貢献を続けており、世界各地での慈善事業に従事する他、チベット仏教の最高指導者ダライ・ラマ14世と共にチベット孤児の教育活動に従事している。遠赤外線温熱療法にテラヘルツを組み合せた独自なホリスティック療法は世界的に評価されている。今は世界の会議から招待され、発表、教育をしている。
01年、9・11の米同時多発テロ悲劇のすぐ後にガイア・ホリスティック基金を創設。「212-799-9711まで、お電話ください。感謝合掌 和子」

(2017年9月23日号掲載)

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