曙 太郎

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ファイターである限りは死ぬまで挑戦したい

「ガチ!」BOUT. 229

 

曙 太郎

 

90年代を代表する大相撲力士の一人、曙。1988年に初土俵を踏み、凄まじいスピードで番付を上げ、初の外国人横綱にまで登り詰めた名力士は、数々の記録を残し、惜しまれつつも2001年に現役を引退。その後、親方として後輩の指導にあたるも、自身のファイターとしての可能性を再び試したいと、日本相撲協会を離れ、格闘技K―1に参戦する。現在はプロレスラーとして主に全日本プロレスのリングに上がるなど、現役ファイターとして活躍している。そんな曙に、ハワイから日本に初来日した時のこと、現役時代の印象的な若貴との対戦や、ファイターとして現役にこだわる意味など、お話を聞いた。 (聞き手・高橋克明)

 

日本で突撃インタビュー

曙さんが初来日されたのが1988年で当時18歳。それまで日本に来られたことはあったのでしょうか。

曙 ないですよ。飛行機に乗ったこともなかった。初めての海外が日本。初めての飛行機がその時。

当時不安でしたよね。

曙 もちろんね。日本語も分からないし、まったく知らない世界でしたからね。来る前はいろんな人に脅されましたし(笑)。(相撲)部屋は軍隊並みの生活だとか。

実際は軍隊以上の……。

曙 いや、もともとうちの親も、特にお母さんが結構厳しかったので、実際、部屋に入ってみても……そんっなに大したことはなかったですね。(笑)

大したことがないことはないと思うんですけど。(笑)

曙 まぁ、確かに厳しかったけど…それを苦労とは思わなかったから。厳しい世界だって分かって行ってるんだから。それをあえて「厳しい、厳しい」っていうのはおかしいでしょ。厳しくて当たり前なんだから。それに自分が入ったのが高見山さん(先代東関親方)の部屋で、まだ出来て2年くらいしか経ってない新部屋だったんですね。先輩たちも同世代が多かったし。だから生活(の部分)で怒られても、稽古場で倍に返せば良かったし(笑)。これが10(年)や15も上の兄弟子たちだとそうはいかなかった。もっと伝統のある部屋だったら、ひょっとしたらもっと大変だったかもしれないですね。高見山さんは優しい方だったので、そのへんはラッキーだったと思います。

でも、18歳の少年なので、ホームシックにはなりますよね。

曙 それはもちろん。最初の半年くらいは毎日(笑)。でも、結局、僕は逃げないですね。まず到着したその日にパスポートを取られるし(笑)。それに逃げるとしても、一日か二日ですよ。だって部屋に帰らないと、お金もないし、泊まるとこもないし、言葉も分からない。なにより、観光で来たわけじゃないから。相撲取りになるために来たわけだからね。

やはり当初から「絶対、横綱になる!」という志を持って飛行機に乗られたと…。

曙 (さえぎって)いや、そうでもないですね(あっさり)。自分が来たのは日本語を覚えるために来たんですよ。大学を卒業したら旅行会社とかで働きたかった。で、日本語をしゃべれれば日本人観光客相手に仕事ができる。そうすると一番高い給料がもらえる。「相撲行かないか」ってオファーがあった時も、3〜4年やって強くなんなくても「言葉覚えられるか」って。どうせダメでも日本語さえ覚えて帰れば仕事にはあぶれないなって(笑)。ホント、そんな気持ちでした。

あ。そうなんですね(笑)。それでも耐えられたのはなぜでしょう。

曙 日本語を覚えたら、だいぶラクになりましたね。(覚えるまでの)最初の半年が一番苦しかったね。教えられること自体がまったく理解できないから。でも言葉を覚えてからは、出世は早かったですね。「心技体」っていうじゃないですか。言葉が理解できたら、体で考えることができた。それに精神的な面がガチって合わさった時には怖いもの知らずでしたね。あのころは、相撲をとるのが楽しくて仕方なかった。そこからは、当分(自分が)横綱(で居続ける)だろうなって。

体一つで勝負する相撲でも、言葉は重要ですか。

曙 いや、それが一番ですよ。だって自分がやってることが理解できなかったら、やってる意味もないし。

そう考えると、外国人力士は最初からハンディを抱えていますね。

曙 うーーーーん、でもさ、それよく言われるけど。だったら、最初から入ってこなきゃいいんだよ!

なるほど。それをハンディだと思うくらいなら、入門しない方がいい、と。具体的にはどうやって日本語を覚えましたか。

曙 体で覚えるしかないですね。最初は親方衆が教えてくれることもまったく分からない。でも、1回、口で言われて分からなくても、2回目は体で教えてくれる時代だったんで。言われて理解できなかったら、体で覚える。あとは、とにかくしゃべりました。毎日、もう、おまえ黙っとけって怒られるくらい(笑)。間違っても、耳に聞こえたものを全部、1回口で言ってみて。だから変な言葉も覚えちゃって「おまえシバくぞ!」とか。(笑)

それにしても、外国人力士の皆さん、日本語が本当にお上手になりますよね。

曙 それは必要としてるからだよ。僕らは日本語を覚えないと相撲取りになれない。今はね(日本人力士の中でも英語を)多少、しゃべれるのもいるけど、当時はみんなしゃべれなかった。僕ら(の時代)でそうだったから、高見山さん(の時代)はどれだけつらかったか…。もう殴られて覚えてたはずですよ。頭から血を流しながらね。(高見山)親方からは「おまえら(の時代は)甘いよ」って言われてたもん。(笑)

当時は想像を絶する厳しさだったのでしょうね。

曙 当時はね。でも今はもう時代が変わってるから。今は「たたいちゃいけない」とか、“かわいがり”の意味も昔とは変わってきてますよね。

僕たち一般人のイメージがすると“かわいがり”を受けて、初めて相撲取りとして認められるというか…。

曙 それはやっぱり僕たちの時代ですよ。僕が昭和63(1988)年の入門なんで、ちょうど昭和の最後の新弟子。でも、当時の“かわいがり”ってさ、「なんとかしてあげたい」「強くさせてあげたい」っていう先輩の思いもあったんですよ。自分と武蔵丸(現・武蔵川親方)は、毎日、小錦(現・KONISHIKI)さんの胸を借りて、強くなっていった。そういう時代だったんです。

では、曙さんの時代の“かわいがり”はイジメではなかった?

曙 イジメじゃないですよ。逆ですよ。「ボロクソ言われているうちは花だと思え」って言われたんです。もう何も言われなくなったら心配しろって。期待されているから毎日胸を貸してくれた。だって相手は現役バリバリの大関だよ。僕ら新弟子を相手したってしょうがないじゃない。それでも胸を貸してくれた。愛情を感じましたよ。相撲界って当時はそうだったんです。でも、今は…どっか途中で間違った道をとったんだよなぁ…。なんか、イジメとか、そういうのになっていったね。

なるほど。では、1993年、横綱になった時の気持ちを聞かせてください。実感はスグに湧いてきましたか。

曙 実感…、うーーーん……。自分の時は横綱にあまりに早くなったから…。だって5年ですよ。30場所ですよ。当時1000人くらいいましたよ、相撲取り。まぁ、それも日々、一生懸命やった結果ですよね。稽古でやってたことを土俵の上で見せていただけです。

来日前は日本語を覚えようというくらいの気持ちで飛行機に乗った。でも、横綱を目指すようになったキッカケはなんだったのでしょう。

曙 高見山さんが引退して、自分の部屋を開いて、連れてきたのが小錦さん。その小錦さんが大関になってハワイから僕を連れてきた。高見山さんが切り開いた道に、小錦さんがレールを引いて、僕はその上を走っただけですから。横綱にならないと、小錦さんたちがしてきたことがぜんぶ、水の泡になってしまう。「なりたい」じゃなくて、「ならなきゃいけなかった」ってことでしょう。

(前述の)1000人が横綱を目指して、実際になれる人間はほんのわずか。横綱になれる力士となれない力士の違いは、実力、才能以外にはなんだと思われますか。

曙 たぶんね、横綱になりたい人は無理だね。

横綱になりたい人間は横綱になれない。どういう意味でしょう。

曙 入門して「オレは横綱になるんだ!」って目指してたらなれないですね。希望を持って、横綱になるって宣言した人で実際なった人を見たことがない。歯を食いしばって、日々一生懸命やって、で、気付いたら横綱になっていたって人ばかりだと思います。

なるほど。

曙 希望を持つだけだと、いい成績は残せるとは思いますよ。でも横綱になるには、ただ、日々、どれだけ歯を食いしばったか。「横綱になる!」といつも考えてたわけじゃなかった。自分が勝つと親方が喜ぶし、ハワイの親も喜ぶし。それだけですよ。「若貴に番付で負けたくない」。それだけを考えて、毎日クタクタ、砂だらけになりながら(兄弟子に)ぶつかっていった。で、気付いたら横綱になってた。 (目標設定や)希望もいいけど、それだけで頑張った(気になっちゃう)危険もありますよね。ただ、日々、必死でやる。そうしたら、気付いたら(目標に)到達してますよ。

横綱時代も含めて、現役時代、一番印象に残った取組はどれでしょう。

曙 たくさんありますが、一番心に残っているのは初めて(元横綱の)貴乃花(当時・貴花田)とやった時ですね。当時から若貴って実力も人気もスゴかったじゃないですか。で、うちの親方に「(曙は)勝てないだろう」って言われたんですよ。こっちはもう「クーッ」って悔しくなって。で、(取組が始まって、貴乃花を)一発でふっ飛ばして。それでそのまま走って(部屋まで)帰ったんですよ。1・5キロくらいの距離を。

テンション上がって。(笑)

曙 ていうか、自分の口から親方に言いたくて(笑)。「おかげさまで、今日勝ちました」って。部屋に着いたら親方が玄関で待っててくれたんです。(先に)マスコミとか相撲協会から連絡がいってたらしくて。「今日、曙勝ったよ!」って。それだけ注目されてた一番だったんですよね。あれは忘れられないですね。それくらい自分も熱くなりました。それからしばらくやる気なくなっちゃうくらい。(笑)

話を聞いていると、曙さんにとって、若貴は本当に大きな存在だったんですね…。

曙 めちゃくちゃ大きいですよ。あの二人がいなかったら、多分、曙は横綱になれたとしても、あんなに早くにはなってないだろうし、あんなに長くは務めてられなかったでしょうね。

面白いですね。一番、勝ち星を邪魔する二人なのに、その二人がいたから横綱になれた。

曙 とにかくあの二人に負けたくなかったですね。全ての面で。入った場所も一緒だし。だって、向こうのお父さんは元大関だとか、伯父さんが元横綱だとか。うちのお父さんはね、バスの運転手。(笑)

対戦して一番強かったのも若貴でしたか。

曙 力だけだったら、武蔵丸や小錦さんの方が強い。上手さでいえば若乃花です。で、相撲の力、たぶんいくら鍛えても鍛えられないような天性の力士の強さは、貴乃花ですね。 体の柔らかさとか、腰の粘りとか、とんでもなかったですね。サラブレッドだからってことじゃないですよ。だって他にも(2世力士は)入った(入門した)じゃないですか。でも、ちゃんと期待に応えたのはあの二人くらいじゃないですか。

若貴って、本当に強かったんですね…。

曙 (うれしそうに)強かったよー(ニッコリ)。他にも、あの時代には魁皇(現・浅香山親方)とか力櫻、和歌乃山…。もう二度とないでしょうね、あんな時代は。

曙さんは、横綱になって、日本でヒーローになった。そのまま、そこにいれば引退した今もヒーローのままでいられたと思うんです。でも…。

曙 今でもヒーローじゃない!(笑)。こうやって、ニューヨークの新聞社から取材受けてるくらいなんだからさ。(笑)

もちろんです(笑)。ただ、総合格闘技のオファーを断る選択肢もあったと思うんです。将来のことだけを考えるとリスクが大きすぎたというか…。

曙 もちろんね。でもね、ファイターである限りは死ぬまで挑戦し続けたいですよね。それに、親方になるっていうのは、相撲取りとは、また別なんです。相撲取り時代は勝てば良かった。何言われようが勝てばいい。でも、親方になったら、そうはいかないんですよ。人の大事な子供を預かって、出世の面倒も見なきゃいけない、けがをさせちゃいけない。僕にはできなかったですね。その時、すでに子供も3人いたんですけど、自分の子供を育てるだけで大変なのに、人の子供の責任まで持てなかったですね。

なるほど。それでは最後に今後の目標を教えてください。

曙 ニューヨークにいる日本人の皆さんに会いにいきますよ!(笑)。プロレスの試合をしに。「NEW YORK ビズ」にスポンサードをお願いして、僕の元気な顔を見てもらいに行くので(笑)、その時はよろしくお願いします。

 

★インタビューの舞台裏★ → /ameblo.jp/matenrounikki/entry-12158108172.html

 

曙太郎(あけぼの・たろう)職業:プロレスラー
元大相撲力士(64代横綱)。1969年ハワイ州オアフ島生まれ。身長203センチ、体重233キロ。88年に初土俵を踏み、ハワイ出身の大相撲力士としてパイオニアである高見山の指導の下、凄まじいスピードで番付を上げ、90年に新入幕を果たした。92年1月場所では貴乃花(当時・貴花田)にあと一歩のところで敗れて優勝を逃したものの13勝2敗の好成績を残し、5月場所では幕内初優勝を飾って大関昇進を果たす。同年11月場所と翌93年1月場所で連続優勝を果たし、外国人初の横綱に昇進。96年に帰化し、2001年に現役引退後は親方として東関部屋で後輩の指導をしていたが、03年に日本相撲協会を退職、格闘技K―1に参戦した。K―1では好成績を残せず、無所属のプロレスラーとして主に全日本プロレスのリングに上がり、ZERO1の世界ヘビー級王座を獲得している。
【ウェブ】akebono-64.net/

 

〈インタビュアー〉
高橋克明(たかはし・よしあき)
専門学校講師の職を捨て、27歳単身あてもなくニューヨークへ。ビザとパスポートの違いも分からず、幼少期の「NYでジャーナリスト」の夢だけを胸に渡米。現在はニューヨークをベースに発刊する週刊邦字紙「NEW YORK ビズ」発行人兼インタビュアーとして、過去ハリウッドスター、スポーツ選手、俳優、アイドル、政治家など、400人を超える著名人にインタビュー。人気インタビューコーナー「ガチ!」(nybiz.nyc/gachi)担当。日本最大のメルマガポータルサイト「まぐまぐ!」で「NEW YORK摩天楼便り」絶賛連載中。

 

(2016年5月21日号掲載)

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