ガチ BOUT. 258
シンガーソングライター 植村花菜に聞く
2年前にNYに拠点移し、ライブ活動
「トイレの神様」が大ヒットし、2010年の「日本レコード大賞」で最優秀作品として作詞賞を受賞、同年の大みそかには、NHK紅白歌合戦に出場したシンガーソングライターの植村花菜さん。2年前、ニューヨークに活動の拠点を移し、現在、日米でライブを行っている。1月30日には、今年最初のニューヨークでのライブを控える植村さんに、シンガーソングライターとしての活動の原点や、ニューヨークに移住したいきさつなど、お話を伺った。
(聞き手・高橋克明)
-多くの方に聞かれたと思いますが、ニューヨークに渡って来られたきっかけは何だったのでしょう。
植村 実は、おばあちゃんとの思い出の歌がテネシーワルツで「トイレの神様」も、そういう雰囲気にしたいなあって思って作ったんですね。それを聞きつけたNHKの旅番組の方が「おばあちゃんのルーツを探しに(テネシー州の)ナッシュビルに行きませんか」ってお話をくださって、2011年の夏に生まれて初めてアメリカに来たんです。
-それまではアメリカという国自体には興味はなかったんですか。
植村 洋楽は好きで聴いていましたけど、特に文化自体には興味はなかったんです。この番組で初めてアメリカに行かせていただいて、初日はいきなり地元のライブハウスのオープンマイクで歌うっていうお仕事でした。そこで、全編日本語の自分のオリジナルの「ミルクティー」って曲を歌ったんですね。歌い終わって、お客さんの反応もわりと良かったんですけど、NHKのスタッフさんがお客さん一人一人に「どうでしたか?」って聞くと、「歌もギターもうまいけど、日本語だから何を言ってるか分からない」ってほとんどの人が言ってたみたいで。
-歌詞の内容を分かるように、英語で歌ってほしかった、と。
植村 はい。でも、私にとってそれはスゴく意外な答えだったんです。だって、私も好きで洋楽を聴くし、訳詞も見るけど、洋楽の歌詞で感動するっていうことがあんまりなくて、だから勝手に、「アメリカの音楽っていうのは、歌詞に重きを置くよりも、メロディーとかサウンドとかを重視してるのかな」って思ってたんですよ。そうしたら、その時のコーディネーターさんが「花菜さん、日本語には日本語しかない表現があるように、英語には英語にしかない表現があるんですよ」って言われて。私そこでもう、本当に目から鱗(うろこ)で。当たり前なんですけど、確かにそうだなって。
-そもそも英語を日本語に訳しきること自体が不可能かもしれないですよね。
植村 おっしゃる通りです。言葉に対する認識が低かったというか、自分はなんて浅はかだったんだと。そこからアメリカの文化と英語にすっごい興味を持つようになったんですね。
-渡米初日に、印象に残る出来事ですね。
植村 そこから1週間くらい滞在したんですけど、ナッシュビル在住のジム・エド・ブラウンさんっていうおじいちゃんにもお会いしたんです。「ザ・ブラウンズ」っていう兄弟のミュージシャンで。
-「いとしのクレメンタイン」の。
植村 日本でも有名ですよね。ナッシュビルでは、もう伝説のおじいちゃん。その人と対談させてもらう機会があって、その時に「一番大切なものは何?」って聞かれたんですよ。私にとって一番大切なものは、子供のころからずーっと、「家族」で。自分のことは二の次、何をするにしても家族を優先してきました、って答えたんですよ。その時にジムさんが「もし、カナが本当にやりたいことがあるなら、家族のことを放って置いてでもやるべき時があるんだよ」って教えられたんです。「周りの人を幸せにしたいなら、まず自分が幸せになることが大切だ」って。
-そう言われた時はどう思いましたか。
植村 もうびっくりして。そんな考え方もあるんだ!って。今まで家族を一番に生きてきて、自分の幸せなんてあんまり考えてなかったから。周りの人を幸せにするためには、自分がいろんなことを我慢してきたし、それが当たり前だと思ってたので。その大切な気付きの後、ナッシュビルでの経験や、ジムさんから学んだことを曲にしたんですよ。周りの人に協力してもらいながら、英語で歌詞を書いて、それにメロディーをつけて。で、最終日に、もう一回、初日のライブハウスで歌わせてもらったんです。そうしたら、地元のお客さんがスゴい数で泣いてくださって。
-初日とはまったく違う反応だったんですね。
植村 それが伝わってきた時、すごくうれしくて。たった1週間だけで、これだけ学ばせてもらって、刺激をもらって、すごくいい経験ができた。ってことは、もしも通訳さんもコーディネーターさんもいない不自由な状態で、1人でアメリカを旅しにきたら、どんなすごいことになるんだろうって。もっと、もっとアメリカを知りたい、と思ったんですね。
-ある意味、運命的な初渡米だったわけですね。
植村 なので、ナッシュビルから帰ってきたと同時に「来年は絶対1人で1カ月以上アメリカを旅しよう」って決めたんですね。で、翌年の2012年の4月から6月まで1人でギター背負ってアメリカ中を旅しました。
-早い!(笑) 本当に1人で行かれたんですか。
植村 はい(あっさり)。アメリカ中のいろんな州で、町で、ストリートライブしたり、ライブハウスに飛び込んだり。で、そこでもまた今まで自分が知らなかった価値観や、生き方を見たり、聞いたりして。旅するごとに、どんどん自分の中で、こう生きたい、これを学びたい、これをしたいって思いが確信に変わっていって。
-ジムさんの言葉を再認識する旅になったわけですね。
植村 そうですね。最終地はニューヨークだったんですけど、2カ月の旅が終わるころには、「もう日本の仕事をやめて、ニューヨークに住もう!」って決めて、帰国と同時に「仕事、もう全部辞めます!」って事務所に宣言しました。
-だから、早い!(笑) 絶対引き止められますよね。
植村 みんなに引き止められました(笑)。ちょうど仕事も忙しい時期だったんで。それでも行きたい気持ちは固かったんで、2週間くらいはずっと駄々こねてました。でも、その時デビュー7年くらいで、あと3年経ったらデビュー10周年だなぁってことに気付いて。メジャーで10年間音楽をやらせていただけるってすごく有難いことだし、今まで支えてくれたファンの皆さんやスタッフの皆さんと10周年お祝いしたいなって考え直して、そこから3年は日本でのお仕事を一生懸命やらせていただいて、で、2015年に無事に10周年を迎えることができたので、16年のクリスマスに、主人と息子と3人で引っ越してきました。
-…何か…行動力がスゴいですね…。
植村 えー、そうですか。(笑)
-その3年間の間に、気持ちが萎(な)えることはありませんでしたか。やっぱり日本にいた方がラクだなぁとか。
植村 まったく(あっさり)。もちろん10周年はファンの皆さんと迎えたかったので、頑張れたんですけど、でもここだけの話、気持ちは「10周年迎えたら、ニューヨーク行ける~!」ってそればっかり。(笑)
-早く10周年来ないかなと(笑)。でも、日本のキャリアも仕事も捨てて飛び立つには勇気も必要だったと思うのですが。
植村 最初のナッシュビルのときが、28歳だったので、29になったとき、今までと違う何かをしないと、一生続くシンガーソングライター人生で、絶対に越えられない壁にぶち当たる気がしたんですよ。このままずっと同じ生活を続けて曲を書き続けても、絶対にいつか進めなくなる。そのためにも何か新しいことを始めなきゃいけないって漠然と思ってたんですね。で、そのタイミングでナッシュビルに行くことができて、これだ!って思ったんですよ。
もっと世界を知りたかったから、行くなら〝今しかない〟って
-日本の芸能活動が絶頂期だったとしても、もう行くしかない、と。
植村 死ぬまでシンガーソングライターですから、その時の目の前のことだけを考えるわけにはいかなかったです。ここで行くか、行かないかで、絶対この先の曲作りだけじゃなく、生き方も変わってくると思ったので。曲を作るって、アウトプットするって、絶対インプットも必要になってくるんですよ。初めてアメリカに来るまでの28年間、日本の価値観の中だけで生きてきて、最初のナッシュビルで、文化の違いにも、言葉の表現の違いにも驚かされて。今までスゴく狭い世界で生きてきたから、もっと、もっと世界を知りたいって。で、行くなら今しかないって思ったんです。もちろん不安はゼロではないですよ。日本でのお仕事も減るし、英語もまったくしゃべれないし。ニューヨークにツテも何もないですから。
-でも、それより行きたい!って気持ちの方が強かったんですね。ニューヨークを選んだ理由は何だったのでしょう。
植村 アメリカ中でストリートライブをして、ライブハウスに飛び込んで、唯一、ニューヨークだけが、今のままの自分を受け入れてくれる、って感じた場所だったんですね。もちろんナッシュビルで歌って、日本語じゃダメだって、言葉の表現の持つ重みを教えてもらって、英語でも歌っていきたいって思ったんですけど、矛盾してるかもしれないけど、それと同時に、日本語の自分の曲にすごく興味を持ってもらえたのがニューヨークで、それが心地良くもあったんですね。この街は誰も「英語で歌いなさいよ」っていう人がいなかった。
-ナッシュビルや(ルイジアナ州)ニューオリンズのような土着感が強い地域とはまた違った魅力を感じたんですね。
植村 それはそれですごく面白くて、とりあえずは英語の話せない私としては、まずはニューヨークからスタートするのが一番スムーズに、いろんな活動ができるんじゃないかと思ったんですね。
-アメリカであってアメリカでない特殊な街ではありますよね。
植村 そうですよね。すごく新しいものを受け入れてくれる体質があって、でも、その中にはナッシュビルみたいにその土地の文化を持っている人もいるし、ここだとあらゆることが一気に学べちゃうなって思ったんです。やっぱりエンターテインメントとしての刺激は世界のどこよりも一番多い街だなって。
-新しいものも、古いものも、日本人でも、何人でも受け入れてくれる土壌がある、と。
植村 あと(ストリートパフォーマンスの時)いちばんチップも多いし。(笑)
-ニューヨークでもストリートで歌ったんですか?
植村 はい、ワシントンスクエア(・パーク)で。
-日本人の通行人に驚かれませんでしたか…。
植村 あ、確かに。ビックリしてる人いたかも。
-紅白出場歌手が路上で歌ってたら、2度見します、普通。告知もナシで?
植村 してないですね。いきなり行って、空いてる場所でやろっかなって。またやりたいです(にっこり)
-今、ニューヨークにきて約1年経ちました。自身の音楽性でいちばんの変化はなんですか。
植村 うーん…なんだろうなぁ…。最初の半年はすごく悩んだり、焦ったりしていました。家を探すところから始まって、引っ越しして、家具を探して、それだけで1カ月が過ぎてしまったり。翌月にはライブをスタートしたんですけど、主人の外国人のお友達が見に来てくれても、お礼ひとつ英語で言えないんですよ。彼らがわーってしゃべってるのを、私がUh=hun, Uhumみたいに相づちだけ打って…。その時に、これ、ヤバいなって思いましたね。自分で思ってる以上に英語がしゃべれないって。日本に一時帰国して、ラジオに出演した時も「どうですか、ニューヨークの生活は?」とか聞かれるんですけど、何もしゃべれることがないんですよ。例えば「駅にトイレがない」とか、「ランドリーは外に行かなきゃいけない」とか、そういう文化の違いは言えるけど、ニューヨークの生活で感じたことっていうのを話せる自分が全然いなくて。だって実際のアメリカ人と話す機会がほとんどないので、話が広がらないんです。
-なるほど…。
植村 その劣等感をバネに、春から図書館が開催してるフリーのイングリッシュクラスに週2回通うことにしたんです。その日だけ息子をデイケアに預けて。で、毎日息子が寝た後に夜中の12時から朝の3時まで、ライティングとリーディングとリスニングを1時間ずつ毎晩3時間。どんなに疲れていても、3時間だけは何がなんでも毎晩やろうって決めて。何かやるって決めたらすごい全力投球しちゃうタイプなので、学校行き始めてからは、ものすごい勉強し始めちゃったんですよ。自慢じゃないんですけど、人生で1回も勉強したことなかったんです。今まで、ほんとに。宿題も教科書も持って帰ったことないし、もうほんとに勉強というものを一切やってこなかったんですよ(笑)子供のころから。
-毎晩3時間はすごいですね。
植村 34歳になって、急にノートに向かってペンでグワーって書いて、息子が寝た後電気も暗ーくして、リスニングのときもイヤホンで聞いて…。
-同時に子育ても、ライブ活動もして。
植村 なので、自分でも気付いてないストレスもあって、今振り返ると心身ともにかなり参っていた気はしますね。でも、その悩みながら切磋琢磨したおかげで、自分が本当にやりたいことが見えてきた気はします。子育てをしながら、英語を勉強しながら、音楽活動をしながら、でも、もっともっとインプットもしなきゃなって思ったんですね。じゃないと肝心の曲が書けないなぁって。
-インプットとは具体的に何でしょう。
植村 ミュージカルも観に行きたいし、オペラも観に行きたいし、いろんな人のライブも観たいしジャズクラブも行きたい。忙しい中でも、時間って自分で作り出せると思うんですよ。息子が生まれたとき、初めての子育てで、毎日時間ないなぁって思ったけど、きっと2人目が出来たら、「1人目の時、実は(今と比べると)時間あったんだなぁ」って思うだろうなってことに気付いたんですよ。ということは、今だって本当は「時間はある」。だから、例えばやりたいことが10個あったとしたら、自分に聞いてみるんです。「本当にやりたいことはこのうちいくつ?」って。で、上位3個に絞れたら、もう他の七つはやらない。本当に大事なことだけやろうって決めたら、やっぱり時間は出来るし、自分の優先順位も見えてくるし。そうやって経験したことや、思いはすべて曲になるんですよね。なので、自分のために時間をつくって、いろいろな経験をすること自体が、シンガーソングライターとして役に立ってる。それを実感できた1年間でしたね。
-日本とニューヨークでライブの時の観客の反応は違いますか。
植村 もちろん、違いますね。以前、(クイーンズの)アストリアでライブしたときに半分日本人のお客さん、半分、地元のニューヨーカーだったんですけど、日本人のお客さんは、やっぱり日本のライブのようにじっくりと聴いてくれて、アメリカ人のお客さんはガヤガヤ好きなことしながら聴いてくれる(笑)。どっちもうれしいんですけど、盛り上げ上手なのは、アメリカ人かもしれないですね。歌い終わった後の歓声も、MC中の反応も、リアクションがいいのは、こっちの人かもしれない。結構、関西と通じるところがあるというか。やっぱりノリがいいですね。
-ライブで歌う時のスタンスとして、言葉以外で日米の違いはありますか。
植村 ないです。一緒ですね。もちろん環境は全然違うんですけど、でも一緒なんです。紅白の時も、クイーンズの小さなライブハウスの時も、ステージに上がる時の気持ちは一緒です。緊張も特にしないので…。
-すごいですね。
植村 もともとはアガリ症なんです。小学生の時、国語の授業の本読みが当たるだけで、もう心臓ドキドキしてどうしようくらいの。でも19歳の時の人生で2回目のライブで、いきなり大きな会場で300人くらいの前で歌う機会があって、もう、緊張するどころか吐きそうになっちゃって、1曲目は声が上ずって全然歌えなかったんですね。歌い終わった後にすごい落ち込んじゃって。なんだ今日のライブはって。緊張したら、こんなに自分の実力を発揮できないんだと。緊張したぐらいで自分の実力を発揮できないようだったら、もう私は金輪際、緊張しない!って、固く心に決めたんですね。そしたらもう次のライブから全然緊張しなくなって。
-緊張しない、と決めたから緊張しない…。
植村 そう(笑)。緊張なんかに二度と負けないって決めたんです。もう金輪際二度としないって。それ以降は、全部一緒。ストリートでお客さんが1人の時も、紅白の時も同じです。いつも通り歌うことが、一番自分らしい歌が歌えるから。私にとっていいパフォーマンスっていうのは、とにかく自分らしい歌が書けた時、自分らしい歌が歌えた時、なんです。なので、ニューヨークでも、日本でも、紅白でも、友達の家でも、歌う時の気持ちはどこでも一緒なんです。
世界中で歌って、その土地の文化と音楽を肌で感じたい
-それでは今後のこの街でのゴールを教えてください。
植村 やりたいことは、世界中で歌いたい!ってことですねー。しかも、日本語で。アメリカや日本だけじゃなくて、ヨーロッパでもアジアでもいろんな国で歌いたいです。世界中で歌って、その土地の文化と音楽を肌で感じてみたい。それと同時に、海外で日本語の歌をうたうことによって、日本の文化や、日本の音楽の魅力をもっと世界中に伝えていきたいです。そのためにも、まずは英語を勉強して、世界中の音楽を聴いて、いろんなものを吸収したいですね。で、死ぬ瞬間まで、自分の音楽を作って、パフォーマンスをしていきたいです。
-最後にニューヨークに住む日本人にメッセージをいただけますでしょうか。
植村 皆さん、何か夢を持ってこの街に来られたと思うんですね。私もそうですけど。でもニューヨークって厳しい街だから、思い通りにいかないこともあると思うんですよ。でも、そうなったとしても、それも多分その時の自分にとってきっとすごく必要なことだから、とりあえずうまくいっても、うまくいかなくても、それを受け入れるっていうことが、全てにつながっていくのかなあって思ってるんです。
-なるほど。
植村 日本にいるころってもっと完璧主義だったんですよ、私。こうやりたいってものがあったら、それに向かって、すごい一生懸命頑張るし、でもそれだけ頑張るから、思った通りにならない時にすごいがっかりしたり、なんでうまくいかなかったんだろうって思ったり、悔しい思いもしたり。でも、アメリカを旅したことと、主人と出会ったことで、受け入れるっていうことが、何よりも大切だなって感じるようになったんですね。良いことも悪いことも全部含めて、とりあえず一旦受け入れて、たとえ今つらかったとしても、その先の良い結果に必ずつながってるので、そこから学ぶものってたくさんあると思うんです。だから、どんな状況でも学びがあることを、決して忘れないようにするっていうことを私は大事にしています。激しい競争社会にいるからこそ、そういう気持ちを持っていた方が、腐らずに、頑張れるんじゃないかなあって思いますね。うん。
NYライブ情報
日時:1月30日(火)午後8時半
場所:ROCKWOOD MUSIC HALL, Stage 3
185 Orchard St, NYC(bet E Houston & Stanton St)
(www.rockwoodmusichall.com)
チケット:20ドル
チケット購入:https://goo.gl/AMfeHa
21歳以上(要ID提示)/2ドリンクミニマム
植村花菜(うえむら・かな) 職業:シンガーソングライター
兵庫県出身。8歳の時、ミュージカル映画「Sound of Music」を観てその世界観に魅了され歌手になることを決意。19歳の時、独学で作詞作曲ギターを始める。2001年大阪で開催されたオーディションでグランプリ獲得。05年メジャーデビュー。10年にリリースした「トイレの神様」が驚異的なロングヒット。同年の日本レコード大賞「優秀作品賞・作詩賞」のW受賞、紅白歌合戦出場。12年ギター片手に約2カ月間の米国一人旅を敢行。13年ジャズドラマー清水勇博と結婚。15年第1子を出産。16年末、家族でニューヨークへ移住。現在は日本とニューヨークを行き来しながら、精力的に音楽活動を行っている。公式ウェブ:www.uemurakana.jp
〈インタビュアー〉
高橋克明(たかはし・よしあき)
専門学校講師の職を捨て、27歳単身あてもなくニューヨークへ。ビザとパスポートの違いも分からず、幼少期の「NYでジャーナリスト」の夢だけを胸に渡米。現在はニューヨークをベースに発刊する週刊邦字紙「NEW YORK ビズ」発行人兼インタビュアーとして、過去ハリウッドスター、スポーツ選手、俳優、アイドル、政治家など、400人を超える著名人にインタビュー。人気インタビューコーナー「ガチ!」(nybiz.nyc/gachi)担当。日本最大のメルマガポータルサイト「まぐまぐ!」で「NEW YORK摩天楼便り」絶賛連載中。
(2018年1月13日号掲載)