〈コラム〉「そうえん」オーナー 山口 政昭「医食同源」

0

マクロビオティック・レストラン(29)

JFKに着いたとき、たったの七十ドルしか持っていませんでした。クレジットカードは、もちろん持っていない。日本に帰る切符も持っていない。(ビザだけは四年間有効の観光ビザがまだ二か月残っていました。)ふつうだったら絶対に入れてくれないところです。
過去を振り返ったとき、なんであんなことをしたのかと自分でも理解できない行動というものがしばしばありますが、このときの行動もそのひとつで、ほかに方法がなかったとはいえ、よくあれでアメリカに戻ってこようとしたものです。――いえ、大胆なのではありません。大胆どころか私は臆病です。(男は多くが繊細で臆病です。)おそらく自分だけは死なないと思っていることと表裏一体の、藁をも摑む思いで戻ってきたのです。
案の定、いくら持っているかと訊かれました。うそを言うしかありません。「千二百七十ドルです」声が震えているのが自分でもわかりました。
彼女の質問に答えるあいだ、敢えて彼女の目を見つめ、できるだけやわらかい表情をしていました。千二百七十ドルという数字も、たぶん訊かれると思っていたから、訊かれてもあわてないように飛行機の中で考えていたのです。そのくらいあれば、三十日くらいの滞在は許してくれるだろうと。
そのとき私は、若い女の前に並びました。アメリカの女は生意気なのが多いが、やさしい女もなかにはいる。それに肝っ玉もでかい。ほかの苦虫を潰したような顔の係官にくらべれば、ヨーロッパで多くの若いアメリカ人の女がバックパックで旅行していたように、彼女もまた――彼女はまだだとしても友達にはいるはずで――私の立場を理解して、金を見せろなどと、そんな失礼なことは言わないだろう。そう願って若い女の前に並んだのです。もし親爺のほうに並んでいたら、金を見せろ、と言われていたのは間違いない。なぜなら、うそをついていることからくる私の自信なさそうな態度に加えて、よれよれの背広とバックパックの取り合わせも不自然で、私の言葉は信用できないとベテラン係官は読んだはずだから。
(次回は7月第2週土曜日号掲載)
〈プロフィル〉山口 政昭(やまぐち まさあき) 長崎大学経済学部卒業。「そうえん」オーナー。作家。著書に「時の歩みに錘をつけて」「アメリカの空」など。1971年に渡米。バスボーイ、皿洗いなどをしながら世界80カ国を放浪。

過去の一覧

Share.