マクロビオティック・レストラン(9)
仕事を変わりました。いまはもうありませんが、百三ストリートにあった『東京書店』です。あのころは、アッパー・ウエストサイドに日本人が多かったのです。給料は週七十五ドル(七十時間勤務)。時給で計算すると一ドル七セントですから、一ドル九十五セントだった「デリ・シティ」より大幅にダウンすることになります。めし代もかかります。ふつうだったら変わらないところでしょうが、お金だけで仕事の価値は決められません。本はいっぱい読めそうだし、客の目線も「デリ・シティ」とは違うはずです。それに肉を売るより本を売るほうが何倍も人のためになります。
アパートも近くに引越しました。オーナーの日本人女性に物置しかないと言われたのを、そこでいいからと無理に入れてもらったのです。天窓があるだけでほかに窓はありません。カギもありません。ほかの人だったら断るところでしょうが「バンコー」を体験した私には天国みたいなものです。さらに書店から歩いて一分三十秒という距離も魅力です。「家賃はあんたが決めんさい」と言われて、月五十ドルにしてもらいました。彼女が経営するコロンビア大学近くの日本レストランまで家賃を持って行くと、「食べていきんさい」と言って、よく親子丼などを食べさせてもらいました。
本は片っ端から読みました。持って帰って読んでいいと言われていたのです。図書館で借りるような面倒もありません。書棚から読みたい本を数冊抜き取るだけです。あるとき若い女性に電話で、「井伏鱒二の『黒い雨』ありますか?」と訊かれて、「ありません」と即答したら、「調べもしないで、どうしてわかるんですか?」と怒られたが自分の書斎みたいなものだから、いちいち見なくてもわかるんです。
売っているのは本だけではありません。タバコ、フィルム、爪切り、香なども置いていました。おもしろいのはタバコの値段で、書店では五十八セント、隣のデリは五十五セント、反対側の隣の中華料理店は六十セント、さらにもう一軒向こうのタバコ専門店は五十セントと、みなまちまちでした。(レストラン内の自動販売機は七十五セントだった。)
たまに警官がタバコを買いに来るんですが、お金など払ったことがありません。ウインクして終わりです。ほかに客がいるときは、「ツケといてくれ」などと体裁を繕うが、もちろん払ったことはない。隣のデリでも、よくサンドイッチなどをもらいに来ていたようでした。「科学の本はありますか? 化け学のほうではありません」と言って入ってきたノースカロライナから来た大学生は、日本語を始めてから一年しかたっていないというのに、漱石も龍之介も読んでいたからびっくりしました。二十年勉強している私の英語より彼の日本語のほうが数等上です。――ショックでした。
(次回は9月1日号掲載)
〈プロフィル〉山口 政昭(やまぐち まさあき) 長崎大学経済学部卒業。「そうえん」オーナー。作家。著書に「時の歩みに錘をつけて」「アメリカの空」など。1971年に渡米。バスボーイ、皿洗いなどをしながら世界80カ国を放浪。