マクロビオティック・レストラン(7)
そのころ「バンコートランド」(通称「バンコー」)に住んでいました。四十九ストリートの七番街からちょっと入ったところにある十二階建てのホテルで、いまは名前も変わって立派なホテルに改装されていますが昔はホテルというよりシェルターに近く、日本人も二百人くらい住んでいました。多くがレストランなどでアルバイトする旅行者です。
一部屋四人で住むから部屋代百二十ドルを頭数で割れば、税金を入れても、一人あたり三十ドルちょっと。日本レストランで働けば月三、四百ドルになり、めしが食えるうえに、一日十時間以上働いているので、お金を使うひまもない。半年も働けば、二千ドルくらい、すぐたまったのです。固定相場制から変動為替相場制になったころで、レートは三百十円前後、つまり月十万円は貯められ、大卒の初任給、四、五万円の日本で働くより三倍のスピードで貯められたというわけだ。
住んでいたのは、ほとんどが男でした。いまと違って、ニューヨークまで来る日本人女性はすくなかったのです。男女の数が逆転するのは八十年代から九十年代にかけてです。バブルがはじけたのと時期が重なりますが、外国に活路を求めたのでしょうか。
アメリカのビザも、四年間のマルチプルがもらえました。四年間は自由に出入りができるというわけです。オーバー・ステイしても、また入ってこれ、半年くらい働いて、一年くらい旅に出る。「バンコー」の日本人は、多くがそうしていたのです。百か国以上旅した人間も珍しくありませんでした。
Sに連れられて、はじめて「バンコー」を訪れたときは、こんな蛸部屋みたいなところに住めるものかと思ったのですが、Sも上の階に住んでいることだし、体験記を書くつもりでいるんだったら、必要かもしれない、と考え直したのです。
ダブルベッドを分解して、ベッドとマットレスを直接、床に敷いた二つの大きなベッド、小さなたんす、机、いまにも壊れそうな椅子が二脚、トランジスター・ラジオ、映るか映らないかわからないようなテレビ、半分割れた鏡、それに大きな音を立てて回る箱型の扇風機と、まるで粗大ゴミのなかで暮す気分、だいたい、ダブルベッド二つ並べただけで部屋の半分を占めていた。窓はひとつ、あることはあるが視界は建物で遮られ、空も満足に見えない。部屋は当然暗い。薄汚い下着や読みかけの本も、あちこちに散らばって、まるで泥棒にでも入られたあとのよう。壁には、だれかがレストランからもらってきたらしい日本のカレンダー。美しい着物姿が、かえって目に痛い。遠くに来てしまったことを再確認させられるようで。――部屋のどこにいても、目が合うんだ。(次回は8月4日号掲載)
〈プロフィル〉山口 政昭(やまぐち まさあき) 長崎大学経済学部卒業。「そうえん」オーナー。作家。著書に「時の歩みに錘をつけて」「アメリカの空」など。1971年に渡米。バスボーイ、皿洗いなどをしながら世界80カ国を放浪。