マクロビオティック・レストラン(36)
見兼ねたHさんが、前に自分が働いていた日本の文房具会社を紹介してくれました。日本から送られてきたマーカーやサインペンの品質を検査するのが私の仕事でしたが、雇われて四日目か五日目に働けるビザを持っていないのがバレてクビになりました。Hさんは一度も見せたことがないので、「(永住権を)持っていると言っておけば」と言われてそうしていたのですが、Hさんにくらべて私の年齢が若いのと、ヒッピー上がりのような私に(永住権の)スポンサーになる雇用主などいないと思ったのか、見せろ見せろの催促で、とうとうシラは切れなくなりました。
ヨーロッパから戻って二か月のあいだに、三度たてつづけです。ヨーロッパに行く前にも書店とレストランでクビになっているので、それから数えると三度クビになり、二度はクビ同然で自ら辞めたことになります。人権にはうるさい国だから、めったにクビにされないと思っていたのが大間違いで、クビにするのは日本よりずっと簡単らしい。
そのあとSに紹介されたのが「S茶屋」という日本レストランのキッチンでした。Sはニューヨークで最初に友達になった日本人で、「S茶屋」以外にも「デリ・シティ」や「ホテル・バンコートランド」も紹介してもらったから、もし彼と出会っていなければ私のニューヨーク生活も、そのときだけでなく、その後に与える影響もだいぶ違っていたでしょう。特に「デリ・シティ」というファーストフード・レストランで働いた経験は、アメリカで得た最初の仕事ということ、バスボーイから始めたということ、十数か国の人間に交じって働いたということ、多彩な顔ぶれの客が来たことなどで、勉強になることも多かったのです。
Sはもともと日本に帰る気はあまりなかったから、JFKで入国を拒否されなかったら私と同じようにニューヨークで暮らすことになっていたはずで、私のように二つの地にまたがる橋の上で思案しつづけている人間より、ずっと足が地に着いた生活をしていたのは間違いありません。高層ビルの谷間でも、たまに鳥の鳴き声を聞くことがあるように私はときに彼から癒され、あるいは教えられ、もっと穏やかなアメリカン・ライフを送っていたと想像されます。
(次回は10月第4週号掲載)
〈プロフィル〉山口 政昭(やまぐち まさあき) 長崎大学経済学部卒業。「そうえん」オーナー。作家。著書に「時の歩みに錘をつけて」「アメリカの空」など。1971年に渡米。バスボーイ、皿洗いなどをしながら世界80カ国を放浪。