〈コラム〉憲法改正に向けて

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歴史力を磨く 第26回
NY歴史問題研究会会長 髙崎 康裕

自民党総裁選に臨んで、安倍総理は秋の臨時国会に自民党案の提出を目指すと表明されていた。確かに、憲法改正を目指す上では、与党が国会議員の3分の2を占める今を措いてその時期はないであろう。

「憲法」という言葉は、日本では聖徳太子の十七条憲法で既に使われていたが、明治憲法の起草の中心的役割を果たした井上毅(こわし)は、聖徳太子の十七条憲法と、これから自分たちが作ろうとしている憲法とは、名前は同じでも別の概念と捉えていた。十七条憲法が当時の役人たちの心構えを記したものであるのに対し、自分たちが作ろうとしているのは「近代的な意味での憲法」であるとしていた。その意味するところは、近代国家の仕組みや国民の権利・義務を規定したものというほどの意味だが、その考えは現在の日本国憲法にも継承されている。

「憲法」と聞くと、普通は日本国憲法やアメリカ合衆国憲法など文字に書かれた憲法、即ち憲法典を想起するであろう。しかし憲法とはもともと英語のConstitutionの訳語である。当初は「国法」「国制」「国憲」など様々な訳語が使われていたが、結局「憲法」に落ち着いたという経緯を持つ。最初に「憲法」という訳語を使用したのは箕作麟祥(みつくり・りんしょう)で、それは明治6(1873)年のことであった。ではもともとConstitutionとはどのような意味を持つのであろうか。試しに研究社の英和辞典を引くと、最初に「構成、組織、構造」という訳語が出てくる。次に「体質、体格」「気質、性質」とあり、やっと3番目に「憲法」が挙げられ、次に「政体、国体」が記されている。実はここが重要であって、例えば日本のConstitutionと言った場合には、日本の国家の「体質」や「構造」のことであり、言い換えれば日本の「国柄」という意味を持つものであって、それを表現した法律が「憲法」だということである。

「私はこれからの日本に大して希望をつなぐことができない。このままいったら『日本』はなくなってしまうのではないかという感を日ましに深くする。日本はなくなって、その代わりに、無機質な、からっぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜け目がない、或る経済大国が極東の一角に残るであろう」

これは作家の三島由紀夫が亡くなる年に書いた文章である。日本という言葉にカギ括弧がついているのは何故であろう。そこには「歴史的な存在としての日本」という意味が込められていた。長い歴史を経て、今日まで受け継がれてきた日本、文化的存在としての日本のことである。それがなくなってしまうのではないかという強い危機感を三島は述べている。勿論そうなってはならないと私達も思う。ではそうならないためにはどうすればよいのか。ポイントは国家の歴史的な連続性をどう確保するかということにあろう。

その「歴史的な連続性のある日本」という国家観を「日本国憲法」に取り戻すことこそが、今後の憲法改正の議論に際して忘れられてはならない視点だと思うのである。

(次回は10月13日号掲載)

〈筆者プロフィル〉髙崎 康裕(たかさき・やすひろ)

ニューヨーク歴史問題研究会会⻑。YTリゾリューションサービス社⻑として、日系顧客を中心とした事業開発コンサルティング、各種施設の開発企画・設計・エンジニアリング・施⼯管理業務等を⼿掛けている。シミズディベロップメント社⻑、Dillingham Construction代表取締役、東北大学特任教授歴任。現東北大学総⻑特別顧問。著作に「建設業21世紀戦略」(日本能率協会)、「海外業務ハンドブック」(丸善)、 「海外プロジェクトリスクへの対応」(エンジニアリング振興協会)など多数。

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