【NY歴史問題研究会 通信】vol. 4 明治の日本と日本人(2)乃木希典〈下〉

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現在のわれわれにも続いている明治の精神

第61回例会(9月例会)-2

ニューヨーク歴史問題研究会は9月28日、第61回例会(9月例会)「明治の日本と日本人(2)乃木希典―自らの死で示した日本人への警鐘―」を開催した。乃木希典の生涯に焦点を当て、明治時代の日本人が目指した生き方や、その精神について説明がなされた。前回(10月14日号掲載)に続き、その内容を紹介する。

 

乃木希典夫妻の葬儀の貴重な写真も紹介された

乃木希典夫妻の葬儀の貴重な写真も紹介された

講師を務めた同会会長の髙崎康裕氏は、休憩をはさんで「乃木を襲った二重の衝撃」として、萩の乱と西南戦争が取り上げられた。1876(明治9)年に起こった萩の乱では実弟が自決し、翌年の西南戦争では連隊旗を奪われた。この「軍旗喪失」という軍人にあるまじき失態を犯した乃木は死のうとするが、明治天皇から「乃木を殺すな」という命令が出されたという。明治天皇は乃木の責任感の強さに、人間としての信頼の念を寄せられたことだと思うと髙崎氏は語った。
明治天皇に敬慕の念を抱いていた人間がもう一人いるとして西郷隆盛が取り上げられ、西郷の「日本には究極の存在がおいでになる」という信念が紹介された。

この二人のことを明治天皇は深く愛しており、象徴的な言い方をすれば、明治天皇と西郷隆盛と乃木希典という、3人の「こころ」が交錯し、そして一つになることで明治という時代、さらに理想としての「日本人の生き方」が、日本の歴史の中に浮かび上がったと思うとした。反逆や恥辱の行為をした二人だが、天皇はそれを許し、広く国民がこれに共感することで、己を虚しくして大義に殉ずるという「明治の精神」がここに確立したと思うと述べた。

この乃木の軍歴を詳しく追うのにあたり、まずは、1894(明治27)年の日清戦争が取り上げられた。「乃木将軍の右に出る者なし」と称賛されたこの戦争で活躍を、勝利を記念し東京・日比谷に造られた凱旋(がいせん)門の写真なども交え、詳しく紹介した。「決して愚将ではない」と強調した。

それでは名将の資質とは何か―。「我が身は常に兵士とともにある」として乃木自身が己に課した指揮官の姿勢は、日本人が抱く「名将」像そのものであると、髙崎氏は語り、乃木の軍人、指揮官としての最大の長所として、作戦戦略立案以前の、「統率力」という点が指摘されていたと強調した。

帰国後、第11師団長となるが、義和団事件に同師団から派遣された歩兵連隊幹部が、馬蹄銀を着服していたことの責任を取り師団長を辞任して、以後3年間、栃木県那須野に引き込もり、農夫の生活を送っていたという。那須塩原市には乃木神社があるが、他にも乃木神社は至る所にあり、「それほど国民から慕われていた」と語った。

司馬遼太郎が『殉死』や『坂の上の雲』を発表して以来、この旅順戦で第3軍は膨大な犠牲を出したことから「乃木ほど軍人の才能の乏しい男も珍しい」という司馬の乃木評がすっかり広まってしまった。その根拠として、海軍が繰り返し要請した203高地を攻めず、東北正面の攻略にこだわったことを問題としている。しかし、「これは全く違う」と、当時の地図を示しながら、詳しく解説した。

ロシアは旅順に要塞や堡塁(ほうるい)の建設を進めており、準備万端で日本軍を迎え撃った。旅順における両軍の兵員の損害が、ロシア軍の死者二、三千人に対して日本軍死者1万5400人以上という甚大だったのは「要塞は守る方が圧倒的に有利」と強調した。要塞を攻撃するためには守る方の3倍以上の兵員が必要で、ロシア軍6万3000人に対し、日本軍10万人で、約1.5倍しかおらず、これで勝てと言うのは本当は無理だったという話だと髙崎氏は語った。

髙崎氏は、『坂の上の雲』「203高地」の誤りとして、さらに細かく解説した。
そもそもそもそも203高地の奪取にこだわったのは海軍で、そこに観測所を設け旅順港内の太平洋艦隊を砲撃するためだったという。しかし、203高地への攻撃は「机上の空論」で意味がなく、ここを攻略した後も旅順要塞の陥落につながらず、その後1カ月も主攻正面の戦闘が継続したことはそのことを実証しているとした。また203高地攻略後に山頂から砲撃で湾内の太平洋艦隊を壊滅させたというのも一種の“神話”で、実際は8月10日の黄海海戦で、戦闘能力の大半は喪失していたという。これは旅順市街でまともな諜報活動がされていなかったことの証左だと髙崎氏は語った。さらに海軍軍令部が唱えたバルチック艦隊の日本海到着は、予想よりも大幅に遅れ、旅順陥落の5カ月後だったことを考えると、そこまで無理をして203高地をおとす必要がなかったことが後になって分かってくるとした。髙崎氏は203高地を題材にした映画をいくつか紹介し、日本人にとって「日露戦争=悲劇の203高地」「乃木希典は愚将だった」と描かれているが、決してそんなことはなかったと語った。

旅順攻防戦の勝利の意味として、地図を使いながら世界史における要塞攻防戦の例を挙げ、さまざまな陸戦の技術と、勇猛果敢な日本兵、それらの兵の気持ちを一つにまとめ上げた乃木大将がいたからこそできた世界に冠たる大勝利戦であったと思うと、語り、「決して愚将ではなかった」と再び強調した。

日露戦争中の旅順軍港攻防戦の停戦条約が締結された水師営の会見では降伏したロシア軍のステッセル将軍を乃木は正装で迎えた。それに感激した米従軍映画技師が、この会見を映画撮影したいとしたが、乃木は敗軍の将に少しの恥辱を与えてはならないとこれを許さず、1枚の記念写真だけを認めたという話もその写真とともに紹介された。
会見の模様は、この写真とともに全世界に報道され、世界はわずか5カ月での旅順要塞の陥落に驚がくし、会見に感嘆したという。

乃木はその武功のみならず、この会見におけるステッセルの処遇について世界的に評価された。ロシアの『ニーヴァ』誌ですら、乃木を英雄的に描いた挿絵を掲載。さらに、ドイツ帝国、フランス、チリ、ルーマニアおよび英国の各国王室または政府から各種勲章が授与されたという。

「乃木は武士道の具現者だった」と語り、水師営の会見の際に乃木はロシア兵の戦没者を丁重に祭ることを約束したことを紹介した。
1907(明治40)年、日本は各地に散在するロシア将兵の墓を旅順に集めてロシア風の墓地と顕彰碑を作り、日本政府主催による慰霊祭を挙行したが、乃木も参列し、顕彰の言葉を述べたという。これは日本軍の戦没者慰霊碑の建立の2年前だったことも強調され、「これはまさに武士道だ」と髙崎氏は語った。

高崎康裕氏の解説に聴き入る聴衆

高崎康裕氏の解説に聴き入る聴衆

乃木が凱旋帰国後の天皇謁見でむせび泣いたことや、長野師範学校での講演時には、「私は諸君の兄弟を多く殺した乃木であります」と言って滂沱(ぼうだ)の涙を流し、壇上にはついに上がらなかった逸話などが紹介され、旅順攻防戦で1万5400人以上の兵を失った後悔や重荷が終生消えなかった気がすると語った。

その時、乃木は死のうとするが、明治天皇がそれを止めたという。その上で学習院院長に任命され、皇孫である昭和天皇らの教育に携わることとなった。

1912(大正元)年9月13日、明治天皇の「大喪の礼」に乃木は自決するが、この自決には後世に向けての「警醒」という意味が込められたのではないかと思うと髙崎氏は述べた。

日露戦争後、日本は軍部や市民にも奢侈(しゃし)と安逸の風潮がまん延していた。そういった風潮に対し、これではまずいのではないか、日本人はこうではなかったということを覚醒するために自ら死んでいった―。それが「明治の武士」乃木希典が貫いた天皇と国家への最後の奉公の姿ではないかと説いた。

その死は米ニューヨーク・タイムズ紙も報道した。葬儀には十数万以上の民衆が自発的に参列し、「権威の命令なくして行われたる国民葬」とも、「世界葬」とも言われたという。その当時の貴重な写真も紹介された。

教育勅語と戊申詔書にも触れ、詳しく解説した。これは天皇自ら、国民に「日本人としての在り方を忘れてはいけない」ということを声掛けをしていたものだと解説した。陛下の佇(たたず)まいに生きる明治の精神として、昭和の敗戦後も、この「日本人のこころ」の在り方は、昭和天皇に受け継がれていたと述べ、明治天皇と乃木がこの国に残したかった「明治の精神」は、今も生きていると思うと語った。

「五箇条の御誓文」も取り上げ、昭和天皇の「新日本建設ニ関スル詔書」にその精神が継続されているとした。

最後に明治天皇の御製を紹介し、悠久の歴史への思い、これが明治というものを輝かせ、そして、今につながっている。こういった歴史を思う時、われわれは日本人というものの精神、日本という国のあり方というものを感謝して、その国民に生まれたことを幸せに思う気持ちになるのではないかと語り、明治の精神がいかにわれわれに続いているかと締めくくると会場は拍手で包まれた。

(2017年10月28日号掲載)

 

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