アメリカでどうやったら生き残れるか常に考えていた
「ガチ!」 BOUT. 171
プロレス界は、武藤の出現前と後に分かれる。「ミスタープロレス」と称された天才レスラー、武藤敬司。かつて米マット界において、最も活躍した日本人レスラーに、フロリダ修業時代、現在の米マット界の現状、そしてアメリカという大国で日本人が活躍するための秘けつなど、話を伺った。(聞き手・高橋克明)
天才レスラーが語る修業時代と今
デビュー30周年おめでとうございます。30年と一言で言っても激動のプロレス半生でした。
武藤 長いねー。いやあ、もう、あんま記憶ないんだけどね。橋本(真也)は死んじゃったけど、蝶野(正洋)とかとはたまーに仕事で会ったりして、過去の話するけど、お互い記憶が定かじゃないから、時系列合わないもんね。忘れてるもん。(笑)
武藤さん本人より、ファンである僕たちの方が武藤さんの経歴に詳しいかもしれないですね。(笑)
武藤 あぁ、そうかもしれないね。特に30年といってもオレの場合、この業界では早熟な方でね。デビューして1年目で、もう(フロリダ州)タンパ(修業)に行ったから、普通の選手よりも(実質的な現役時代が)長いんですよ。
1年目で海外修業に出されるほどの期待される新人はそういないですよね。
武藤 そんなことはないけど……ま、そうかな。(笑)
1984年なので、当時21歳ですね。それまでにプライベートでもアメリカに行かれたことはあるんですか。
武藤 ない。初めて。
会社から行ってこいと言われた時はうれしかったですか。それとも、プレッシャーを…。
武藤 (さえぎるように)あのね、俺、出身山梨なんですよ。そこから東京出た時はさ、ビルばっかで「うわぁー、すげえな、東京って都会だなぁー」って思ってて。で、次にアメリカ行けって言われた時は「ここ(東京)よりスゴいんだろうな」って、イメージだったから。(実際)フロリダ行ってみたら山梨より田舎みたいなところでさ。
特に当時のタンパって何もないですよね。(笑)
武藤 うん、ビーチしかない。まぁ、天気はいいんだけどさ。
環境がいいからレスラーの修業先ってフロリダなんですかね。新日本(プロレス)の新人海外修業先ってみんなタンパですよね。
武藤 たぶん暖かくって、住み心地がいいんですよ。アメリカのレスラーって各地(の巡業先を)転々とする職業じゃないですか。だから所帯持つのは、セントピーターズバーグとか、クリアウォーターとか、ペンサコーラとか、住み心地いいとこにするんだよね。ハルク・ホーガンの家もあの辺だよね。何にもないんだけどさ。(笑)
何もないから、あんまり面白くはなかったですか。
武藤 いや、面白かったねぇ(笑)。楽しかった! なんていうんだろ。プロレス界ってさ、なんだかんだ言って封建的な社会で、ましてや30年前ならなおさらだよね。そんな中、アメリカって封建制度がないじゃないですか。
上下関係も曖昧というか。
武藤 だから、その解放感だけでねぇ。タンパの人たちって人間関係の解放感がパンパないからさ……。いろいろ、最高じゃない。(笑)(←意味深)アメリカ人のおおらかさに初めて触れたわけだから。
(当時の)フロリダは日本人も少なかったですよね。
武藤 あんまいなかったね。当時「JOTO」っていう日本食レストランと、あと、もう1軒あったかな。そんくらいですかね。
人種差別も今より顕著だったと思うのですが、それでも当時は相当モテましたよね。試合後のレスラー目当ての女性ファンが集まるバーも必ず会場近くにあったりして…。
武藤 (さえぎるように)ただね、ただね、ただね。例えば、東京で六本木行ったとして、そこにいる外国人ってスレンダーなキレイな子ばっかなんだよ。「(本場って)こんなやつばっか、いんだろうなぁ」ってイメージ持ったまま、実際行ったらさ、(両手を広げながら)こぁんなデッカいコがデッカいコーラ抱えて、でぇえっかいハンバーガー食っててさ。あれにはビックリしたよね。
武藤さんが差別してます。(笑)
武藤 ただ、オレ、免許持ってなかったんすよ。国際ライセンスっていうの? あと、車もなかったじゃん。アメリカってニューヨーク以外、車ないと悲惨でね。やっぱりすかさず考えるのは………アッシーだよな、うん。
タンパは楽しい思い出として残っている感じですね。
武藤 第2の故郷になっちゃってる感じですね。その後、アトランタにも住んだけど、そこからも車で8時間くらいかけてちょくちょく遊びに行ったしねー。まぁ、友達もいたからだけど、記憶としては(アトランタよりタンパの方が)いっぱい持ってるよ。
その後、1989年、日本に闘魂三銃士(武藤、蝶野、橋本)として一時凱旋(がいせん)帰国します。そこからまたスグに、アメリカに戻られますよね。
武藤 その時はね、プエルトリコ行って、で、テキサスはダラスに行って…で、ダラスで仕事してる時に、あのテッドターナー率いるWCW(World Championship Wrestling)って団体にスカウトされたんですよ。そこの本拠地がアトランタだったんですね。
(グレート・)ムタが誕生したのもその時。
武藤 うん、その時。
相当ブレークしましたよね。(リック・)フレアーとの抗争を軸に。
武藤 うん、まぁー、ただ、今考えると、(そこに)いたのは1年なんですよ。それ、よく言われるんだけど、実質たったの1年間なんですよ。
あ。そうなんですね。それだけインパクトがスゴかったんですね。
武藤 いまだに、そのフレアーやスティングとの抗争のことを、特にアメリカだとよく言われるよね。当時プロレスファンだった奴らが(あれを見てレスラーになって)今のアメリカのプロレス業界を支えてるような現状になってるっていうか。
そんな、アメリカンプロレスの象徴である武藤さんが、昔、何かのインタビューで、今までで一番カッコいいアメリカのレスラーはバリー・ウインダムだって答えてらして…。
武藤 (さえぎりながら)オレ、そんなこと言った? (笑)
記憶にないですか。(笑)
武藤 いや、バリー・ウインダムも良かったよ。うん、うん。
あらためて、武藤さんが一番影響を受けたアメリカのレスラーは誰ですか。
武藤 今と昔とプロレス界もシステムが違うんですよ。オレがいたころはね、フロリダ(内の各地)だけを転々と回るフロリダチャンピオンシップっていうのがあったんですよ。テネシーだけなら、テネシーだけ。テキサスなら、そこだけっていう。例えばバリー・ウインダムなら、フロリダ(の中で)の人気ナンバーワンの若頭であって。それらの集合体がNWA(全米レスリング同盟)っていう大きな管轄内にあって、(各エリアに)たまに本部から(チャンピオンの)フレアーとかが来るんですよ。で、その各地方のトップとチャンピオンシップ(タイトル試合)をやる。そうなったら、ハウス(来場客数)がブワーって上がるんすよ。そしたら、俺たちの給料も上がる。「うっわ、フレアー様様だな」って(笑)。そんな感じ。昔はそういうシステムだったわけ。
なるほど。つまりフレアーがあれだけ偉大なレスラーと言われるのは、レスラー仲間からも…。
武藤 そうそうそうそうそう、うん。こいつが来てくれたから俺たちのお米(給料)もこれだけ上がったぞっていう。さっき言った封建社会じゃない典型だよね。(年功序列じゃなくて)彼一人の集客力によって俺たちのギャラも変わるんですよ。人気ある者が強いっていうか。今は違うよ。今はもうWWE(World Wrestling Entertainment)が一本化しちゃって、契約とかで縛られちゃってるけど。
そのフレアーとの抗争に抜てきされたことで、武藤さんもアメリカで大成功したわけですよね。
武藤 当時、まだ若造がね(笑)。だってフレアーもスティングもトップ中のトップだったんだから。彼らに引っ張られて、彼らのポジションにまで一気にバーって上げてもらったんだよね。だから2人に関しては感謝もあるし、まぁ、影響も受けたっすよね。今年、オレ、デビューして30周年だから、イベントでスティングあたりは呼びたいなって思ってて。でも、アイツ、急にWWEと契約しちゃったからなぁ…。
じゃあ、武藤さんがニューヨークに来られて、スティングと試合するっていうのはいかがでしょう。
武藤 ニューヨークはやらねえよ(笑)。オレ、そんな無謀な事しないよ。(笑)
でも、さっきも言ったように、アメリカのプロレスファンの中では今でもグレート・ムタはレジェンドで、待っているファンは多いと思いますけど
武藤 ギャラ出たら、行くよ(笑)。(近くにいたマネジャーに)なっ。オレさ、プロモーターに呼ばれて、3〜4年前にニュージャージーに試合しに行ったのよ。
あ。そうなんですか。
武藤 オレのサイン欲しくて300人くらい(のファンが)列作って並んでたよ、うん。で、翌年も(オファーが)来たんだけど、ギャラ落としてくれねえかって言ってきて。落とさないって言ったら、もう呼ばれなくなったよ。(笑)
昔ほど、アメリカマットのマーケットに魅力を感じなくなってますか。
武藤 いや、そんなことないですけど、今はもう、WWEの独占じゃないですか。(彼らは)世界をマーケットにしてる年商600億(円)くらいある上場企業だからさ。俺たちが東京、大阪、名古屋ってちっちゃい所で転々としてる中、向こうはヨーロッパ、アジア、アメリカって大きなビジネスをしてるわけだから。大き過ぎるよね。ただ、W―1のWってWrestlingのWだけど、同時にWorldのWでもあるから。今はまだ去年の9月に生まれたばっかりのヨチヨチ歩きだけど、一生懸命成長させようと思ってるからね。そのためにもアメリカってやっぱり俺がキャリアを培った場所でもあるわけだからさ。やっぱりワールドで活動していきたいよね。
これは答えづらい質問かもしれませんが、例えば(アントニオ)猪木さんや長州さんといった日本でのスーパースターが、そこまでアメリカマット界でブレークしなかった理由は何だと思いますか
武藤 まぁ同時期じゃないから、何とも言えないんだけど、猪木さんや藤波さんや長州さんとかって、日本ありきで仕事してた、うん。
なるほど!
武藤 オレはさ、なんていうんだろう。ここでどうやったら生き残れるのかなって常に考えてたから。日本に帰ってどうのこうのって(考え)なかったから。グリーンカード欲しさに「このコと結婚してやろうかな」くらいまでの考えがあったりしたしね。橋本とか、あのあたりはさ、日本に帰った後、どう(アメリカでのキャリアを利用)しようってイメージでアメリカ来てるから。
全てをかけて来たかどうかってことですね。それでは最後に現在アメリカに住んでいる日本人に向けて何かメッセージを頂けますか。
武藤 アメリカで生活するって時点でさ、大変じゃん? あいつら(アメリカ人)(人種)差別するくせに(ある意味)差別しねえからさ。同じ土俵に乗ったら、英語がしゃべれないとか関係ないから。「なんでおまえ、英語しゃべれないの?」って英語で聞いてくるからね(笑)。向こうから日本語で歩み寄ろうって絶対しないじゃん。まず言葉で一つハンデがあるわけだから、そりゃあ、大変だと思うけど、でも、まぁ頑張ってほしいよね。だって充実度だけなら、そりゃあ、こっちより高いと思うよ。オレも若かったからかもしれないけど、いた時、帰りたいとは思わなかったもん。充実できるなら、日本より断然面白いよ!
◇ ◇ ◇
このインタビューを収録したのが4月7日。WRESTLE―1の後楽園ホール大会の前に控え室でお時間を取っていただきました。本文でも「ニューヨークでやるなんて無謀なことしねえよ」と笑ってらっしゃいましたが、事態は一転。今月25日のTNA NY大会にも電撃参戦することが決定しました。マンハッタンにグレート・ムタが降臨します!
武藤敬司(むとう けいじ) 職業:プロレスラー
1962年生まれ、山梨県出身。高校時代、柔道の国体で優勝。卒業後、全日本強化指定選手にも選ばれる。21歳で新日本プロレスに入門。同期の蝶野正洋、橋本真也と共に闘魂三銃士と呼ばれ、一世をふうびする。80年代に米国修行に出て、「グレート・ムタ」のリングネームで米国のリングに上がる。帰国後、レスラーとして活躍する一方で、全日本プロレス社長などを経て、昨年7月に新団体「WRESTLE-1」を発足、同団体を運営するGENスポーツエンターテインメント代表取締役社長も務める。「武藤塾」の塾長、山梨県の観光大使。タレント、俳優としてもテレビなどで活躍。
公式ブログ:http://ameblo.jp/muto-ajpw
WRESTLE-1公式サイト:www.w-1.co.jp
〈インタビュアー〉
高橋克明(たかはし・よしあき)
専門学校講師の職を捨て、27歳単身あてもなくニューヨークへ。ビザとパスポートの違いも分からず、幼少期の「NYでジャーナリスト」の夢だけを胸に渡米。現在はニューヨークをベースに発刊する週刊邦字紙「NEW YORK ビズ」発行人兼インタビュアーとして、過去ハリウッドスター、スポーツ選手、俳優、アイドル、政治家など、400人を超える著名人にインタビュー。人気インタビューコーナー「ガチ!」(nybiz.nyc/gachi)担当。日本最大のメルマガポータルサイト「まぐまぐ!」で「NEW YORK摩天楼便り」絶賛連載中。
(2014年6月21日号掲載)