〈リアル〉File 3 建築士 田口英明さん

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〜メッツ新スタジアム 建築デザイナーの一人〜

野球場のデザインで味わった「建築士冥利」File 3-1

ミズーリ州カンザスシティに本社を構える「POPULOUS」。MBLの球場設計に携わり、これまでにニューヨーク・ヤンキースのYankee Stadium、フィラデルフィア・フィリーズのCitizens Bank Park、サンディエゴ・パドレスのPETCO Parkほか、多くの球場を生まれ変わらせてきた大手設計事務所だ。同社に所属している田口英明さんは、ミネソタ・ツインズの新球場と、ニューヨーク・メッツのCiti Fieldに建築士として携わった唯一の日本人だ。

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今年からオープンしたニューヨーク・メッツのホーム・グランド、Citi Field。今月3日、ボストン・レッドソックスとのオープン戦で大歓声の下、その姿を披露した。この新スタジアムの完成をひょっとすると初めて生で見た日本人だったかもしれない。田口英明はCiti Fieldをデザインした設計事務所「POPULOUS」のデザインチームの唯一の日本人スタッフだ。

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世界を旅する、30分のドキュメンタリー番組を毎週楽しみに欠かさず見ていた小学生は、日本の大学を卒業した後、ごく自然と海外への道を選んだ。
建築工学をミシシッピーの大学で学んだ後、地元の設計事務所に就職。そこで8年間を費やす。その後、建築士のライセンスを取るために再びイリノイの大学院へ。「不安はもちろんありました。明日から収入がゼロになるわけですから。でもバイトはせずに蓄えだけでとにかくこの2年間は勉強しよう、そう誓いましたね」。36歳からの決断だった。上々の現状からまた学生生活に戻る。この時もまた渡米したときと同様、周囲の反対を押し切る形となる。「でも自分がちゃんと計画してゴールがあるんだったら何とかなるもんだと思うんです。これからこの業界で真剣に建築士として身を立てていくにはそこまでしないと話にならないと思いましたから。36歳からまた2年というのは正直言ってしんどかったです。ただ、今振り返れば2年でしかない。長い人生の中で言うとほんの点、でしかないですよね」。ただ、その2年間は地獄でしたけどね、と笑いながら付け加える。建築学専攻の学生に出される課題の多さは有名だ。朝8時からの講義に出席して、その後スタジオに昼から入り浸り、夜中3時ごろまで課題に取りかかる。睡眠時間は4時間あればうれしい。当時の写真に写っている自分は今見ても別人のように疲れた顔で必ず目の下にはクマがある。メキシコ料理屋でスプーンを握ったまま寝てしまっている所を撮られた写真も残っているという。「日本人でアメリカに来て建築を学ぼうとされている方は自分に限らず、皆さんほとんど寝てないと思いますよ。まあ、今だから笑って話せるんですけど、30代でやるもんじゃないですよね。20代のうちにやっときゃ良かったなって」

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2年に及ぶ建築工事の末、今月3日に新しくオープンしたニューヨーク・メッツのホームグラウンドCiti Field(撮影:工藤)

2年に及ぶ建築工事の末、今月3日に新しくオープンしたニューヨーク・メッツのホームグラウンドCiti Field(撮影:工藤)

その不眠不休の2年間は田口が本当にしたかった仕事をもたらす事になる。「POPULOUS」。世界的なネットワークを持ち、スポーツ施設を中心に世界中の著名なコンベンションセンターを手掛けてきた有名設計事務所。田口はここのデザイナーチームの一員として迎えられた。もともとスポーツ施設を専門とした設計会社に特別な興味があったわけではない。ただ、建築は下手をすれば限られた人のみに対するサービスになってしまう事がある。マンションであればそこの住人のみに。ホテルであればそこの宿泊客のみに。ただ、スポーツ施設であれば誰もが入場できる。誰もが楽しむ事ができる。野球場ならその最たるものといえるかもしれない。建築をする人間にとってできるならば自分がかかわった仕事にはできるだけ多くの人に楽しんでもらいたい。「これより自分に合ってる職業を探すのは難しいと思うんですよね」

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次の目標を訪ねると即座に「日本で仕事がしたいです」との答えが返ってきた。日本の会社で、という意味ではない。こっちで得たノウハウをそのままにアメリカの建築士として日本の建築士たちと組んで一つの建造物をデザインしてみたいと言う。「日本の野球場ってアメリカのスタジアムとはやっぱり違うんです。多目的用なのでドーム型ってのも分かるんですけど、でも野球って極端に言えば野原でやるもんだと思うんです。襟を正して見る、そんな高尚なもんじゃない。芝生の匂い、ゲートをくぐった瞬間に目に飛び込んでくるフィールド、ビールを飲みながらもっとリラックスして見るものだと思うんです。こっちのスタジアムの作り方は遊びがあります。われわれのやってきた事で提供できる事があると思うんですよ。一緒に作る事ができたらこれ以上うれしい事はないですね」。徐々に熱を持った話し方になるも、最後は照れながらこう付け加えた。「で、その球場に母親を連れて行けたらいいなあ、って思ってるんです」

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オープニングゲーム直前、タイムズスクエアにあるESPNで行われた会社主催のパーティにて。写真中央が田口さん

オープニングゲーム直前、タイムズスクエアにあるESPNで行われた会社主催のパーティにて。写真中央が田口さん

かつてシカゴ・カブスの本拠地リグリーフィールドのデザインにかかわった際もオープニングデーに招待された。満員に埋まった何万の大観衆を見たときの感動は忘れる事ができない。「建築士冥利(みょうり)に尽きましたねえ」。そしてこのインタビュー後、田口はここニューヨークのCiti Fieldで再び「建築士冥利」を味わう事ができる。
〈profile〉 たぐち・ひであき 静岡出身。東京農業大学卒業後、渡米。留学先の南ミシシッピー大学で建築学に出合う。同校卒業後、現地の建築会社に就職。8年後、キャリアアップのため、イリノイ大学アーバナシャンペーン校大学院に進む。2005年、大手設計事務所「POPULOUS」に就職、現在に至る。
(2009年4月18日号掲載)

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