マクロビオティック・レストラン(14)
「グッドラックというのは、日本語で何と言うの?」
「幸運」
「一筆、書いてくれないか?」
「えっ?」
よく、おどろかせるやつらだ。壁に貼るつもりらしい。
「日本人がよく来るの?」白い紙と黒のマーカーを受け取りながら言った。
「たまには」
翻訳するのは短い言葉でもむずかしい。グッドラック??手術前や受験前の人間、あるいは愛を告白しに行くものには「成功を祈る」「うまくゆくことを願っている」「頑張れ」などが相応しいが旅立ちを前にした人間には、もっといい表現がある気がします。「御幸運を」「幸運を祈る」「幸あれ」などと酔いが回り始めた頭で考えた末、結局、書いたのが、「あなたの旅が幸運に充ちていることを!」
ちょっと長くなったが、仕方ないでしょう。
「ビューティフル!」
その後、彼らから電話がかかってきて私の出発は、三月二日から三日、さらに五日と二度も延期された。いくら安いとはいえ、そうたびたび変更されてはたまりません。三月に入ってからは昼間の仕事も辞め、ぶらぶらしていたので、一日も早く出発したいというのが本心でした。それでも三月五日午後十時三十分から十一時三十分に変更されたときは、ほんとうにこれが最後で出発は間違いないものと信じていました。
三月五日、日曜日、前の晩から泊まっていたニュージャージー州に住む澤田夫妻に送られて午後八時にはケネディ空港に着きました。私が乗るドナルドソン航空は広い空港の中でも外れのほう。背中のバックパックが重い。半年も旅に出るので読みたい本を詰めこめるだけ詰めこんだら、今度は立ち上がれなくなって、ひとりで笑ってしまいました。それでもまだ、『アンナ・カレーニナ』『赤と黒』『女の一生』など、二度くらい読めそうな文庫本が十冊くらい入っています。背負うと肩にずしりときた。
パスポートと旅行社でもらったレシートを持って受付に行った。ふたりの若い女は、しばらく乗客名簿と私のパスポートを見比べていたが、
「あなたの名前はないわ」と多少、同情を込めて言った。おどろきで私は言葉が出ない。「似たような名前だって、ないのよ」
私もいっしょになってプリントを見るが、たしかに私の名前はありません。騙されたという気持ちが半分と、ヒッピー上がりのアメリカ人がやることだから何かの手違いがあったと考えたい気持ちが半分の複雑な心境、しかし腹立たしいのには変わりなく、彼らのオフィスでも電話したいところだが、こんな時間ではどうしようもありません。
(次回は11月17日号掲載)
〈プロフィル〉山口 政昭(やまぐち まさあき) 長崎大学経済学部卒業。「そうえん」オーナー。作家。著書に「時の歩みに錘をつけて」「アメリカの空」など。1971年に渡米。バスボーイ、皿洗いなどをしながら世界80カ国を放浪。