倫理研究所理事長・丸山敏秋「風のゆくえ」 第116回
エリ・ヴィーゼルといえば、1928年にルーマニアに生まれ、アウシュビッツ強制収容所で九死に一生を得た著名な作家である。人種差別反対運動の先頭に立った彼には、毀誉褒貶さまざまあったものの、1986年にノーベル平和賞を受賞した。
筆者はヴィーゼル氏の印象深い次の言葉を『文芸春秋』2000年1月号の記事の中で見つけてから、折々に紹介してきた。
──「愛の対極にあるのは憎しみではない。無関心である。美の対極にあるのは醜さではない。無関心である。知の対極にあるのは無知ではない。それもまた無関心である。平和の対極にあるのは戦争ではない。無関心である。生の対極にあるのは死ではない。無関心、生と死に対する無関心である」
愛の対極が憎しみでないのはよく分かる。愛の本質は結びつこうとする力だから、その反対は無関心といっていいだろう。ケンカするほど仲がいい、と言うではないか。
醜いと思われる対象の中に美を発見できることもあるから、美と醜はかならずしも対極にあるとはいえない。路傍の腐った犬の死体を見たイエス・キリストが、「この犬はなんて美しい歯をしているんだろう」と呟いた逸話をゲーテが詩に作っている(『西東詩集』)。
死は生の終わりなのだから、やはり生の対極ではないだろう。臨死体験の報告はいろいろあるけれども、その人が本当に死んだわけではないので、なんとも言えない。もし死後の世界があるのなら、それはまた別の生であって、現在の生の対極にあるものではない。
知と無知の場合も同様だ。では、戦争はどうか。
ほとんどの人が常識として、平和の対極は戦争だと思っている。戦争反対を唱えれば、平和がやってくるという甘い錯覚がそこに生まれる。平和の対極が無関心だとはかならずしも言えないにしても、戦争を平和の対極に置いてしまうと現実が見えなくなる。
ある物事の対極とか反対に何があるかをキャッチするのは、思考の基本だ。天と地、男と女、左と右、夏と冬、明と暗、火と水、桜と紅葉……。二項対立する関係性はいくらでも見出せる。神話の時代から、人間はそうして現実を認識し、知識を増やしていった。
ところがよく考えもせずに二項対立を鵜呑みにすると、間違ってしまう場合があることを、先のエリ・ヴィーゼル氏の言葉は教えてくれる。保守と革新も、共和と民主も、その例に漏れない。
政治の世界で「保革一騎打ち」とか「保革伯仲」と囃されると、保守の対極に革新があるのだと思い込まされてしまう。両者は政治的立場のごく大まかな区別にすぎない。本来、保守と革新は互いに含み合っている。あざなえる縄のごときものだ。
すると保守の対極にあるのは何か。──それは虚無的な破壊(無秩序)にちがいない。それこそが真に怖ろしいことを、われわれはもっとよく知っておく必要がありはしないだろうか。
(次回は12月第2週号掲載)
〈プロフィル〉 丸山敏秋(まるやま・としあき) 1953年、東京都に生まれる。筑波大学大学院哲学思想研究科修了(文学博士)。社団法人倫理研究所理事長。著書に『「いのち」とつながる喜び』(講談社)、『ともに生きる』(倫理研究所)など多数。