〈コラム〉奇跡の一本松の根

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倫理研究所理事​長・丸山敏秋「風のゆくえ」 第133回

東日本大震災では、大津波によって1万8000名を超える犠牲者が出た。震災発生から20日を過ぎて訪れた被災地で、目にしたその凄惨な爪痕は忘れられない。

岩手県宮古市田老地区には、高さ10メートル、総延長2キロメートルを超える防潮堤の要塞が築かれていた。しかし大津波はその防潮堤を破壊して乗り越え、市街地は壊滅的な被害を受けた。

他方、田老から約40キロメートル北上した海岸には、コンクリートの建造物で津波被害を食い止めた村があった。普代水門と太田名部防潮堤に守られた岩手県下閉伊郡普代村である。

この水門と防潮堤は、どちらも昭和22(1947)年から10期40年もの長きにわたって村長をつとめた和村幸得氏(1909〜97)の尽力で建てられた。そこは貧しい村である。いつ来るかわからない津波を防ぐのに、35億円を投じようとした村長の計画に、当初は反対の声が多く上がった。それでも和村氏は、かならず津波は来ると確信を抱いて乗り切った。

「3.11」大震災では過去の津波をはるかに超える23.6メートルもの大波が襲いかかった。けれども高さ15.5メートルの水門によって勢いが削がれ、普代村の中心部は大きな被害を免れる。防潮堤も高さが同じく15.5メートルあり、立派に被害を食い止めた。和村村長の先見性は賞賛に値する。さらには普代水門の内陸側の河口付近に、多数の木が植えられていた。津波の勢いを弱める木々も、水門ができる前に、和村氏の号令で植えられたのである。

リアス式の風光明媚な三陸海岸で、ひときわ美しい景観を保っていたのが、岩手県陸前高田市の広田湾に面した「高田松原」である。かつては約7万本が2キロメートルの砂浜に茂っていた。それが大震災の大津波で、たった1本を残し、すべてがなぎ倒されてしまった。奇跡的に耐え残った一本松は、復興への希望の象徴になった。塩害などにより生きた状態では保存できないため、現代の加工技術の粋を集めて、長く太い幹と先端の枝葉を甦らせ、現在も同じ場所に立ちつづけている。

その一本松の根の部分は、別途掘り返され、陸前高田市が保存していた。高さ約2メートル、横幅約10メートルの巨大な根である。その根を、筆者が理事長をつとめる一般社団法人倫理研究所の建物「紀尾井清堂」(東京都千代田区)に展示してはどうか、との提案を受け、去る3月11日より一般公開している。ある60代の女性は次のような感想を寄せてくれた。

「国内はコロナ禍で、国外では教科書で習ったあり得ない侵略が現実に行われて、3.11は正直過去の物になっていました。緑豊かな美しい松原、それが本当に日常から根こそぎ奪われてしまっている、失われたのは松だけでは済まなかった現実、その事を知りもせずに過ごして来た鈍さに泣けました」

たくましい「根」を見ていると、〈自分自身の根とは何だろう?〉と考え込んでしまう。はたして自分は、周囲の変化に惑わされない不動の何かを持っているだろうか、と。

展示会は来年2月まで予定している。

(次回は5月第2週号掲載)

〈プロフィル〉 丸山敏秋(まるやま・としあき) 1953年、東京都に生まれる。筑波大学大学院哲学思想研究科修了(文学博士)。一般社団法人倫理研究所理事長。著書に『「いのち」とつながる喜び』(講談社)ほか多数。最新刊『至心に生きる 丸山敏雄をめぐる人たち』(倫理研究所刊)。

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