〈コラム〉「ハイッ」の威力

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倫理研究所理事​長・丸山敏秋「風のゆくえ」 第157回

気持ちのいい居酒屋がある。ビールを注文すると、「ハイッ、よろこんで」と店員が応じる。「お待たせいたしました」とすぐに運ばれたビールは、2倍も美味しく感じる。「焼き鳥の盛り合わせ」をオーダーすると、これまた「ハイッ、ありがとうございます」と元気がいい。ついつい注文の品数が増えてしまう。

相手の心を明るくする魔法の言葉をあげるなら、筆頭は元気な「ハイ」の返事だろう。あいさつと返事は一対である。呼びかける言葉がなければ、返事もない。返事がなければ、呼びかけも意味をなさない。

相手の心に響く「ハイ」の条件をまず三つあげよう。
第1は、素早いこと。古い蛍光灯のように、スイッチを入れてから間があるようではいけない。呼びかけられたら素早く応じる。
第2は、「ハ」と「イ」の間を短くすること。タイトルにあるように、「イ」のあとに小さな「ッ」を意識するとよい。
第3は、声の音程を高めにすること。気持ちが乗らないとどうしても音程が下がる。音階の「ソ」か「ラ」を意識しよう。言うまでもなく「ハイ」の返事は1度でよい。「ハイハイ」とかさねると嫌味になる。

そうしたポイントは外面のことで、言葉は心の表れである。明朗快活な心のありようがもっとも肝心だ。

筆者が所属する倫理研究所を創立した丸山敏雄の弟子に、鳥居武二という7歳年下の男がいた。まだ戦後間もない頃、大分県から上京した鳥居が、丸山敏雄のもとを訪れた。ひどくみすぼらしい家屋なので、「トタン板でふきかえたらどうでしょう」と鳥居は提言し、なんとか材料を調達した。

2人の作業がはじまると、鳥居は敏雄から指示されることに対して、いちいち意見を述べた。「先生、それはこちらからこうした方がよいですよ」と、なにかと自分の考えを口にする。すると「こうしなさいと言ったらハイと聞くのです」と師匠から厳しく諭される。当時の鳥居は〈言われたことをただそのままハイと受ける〉という心の姿勢ができていなかった。師匠はそのことを、愛弟子に教えようとしたのである。

「言われたことをそのまま受けるとは、なんと封建的な」と訝しく思うむきもあろう。反論があり、文句があるなら、あっさり言うべきではないか。その通りである。

ただしそれを言うのは、「ハイ」とまず受けとめ、言われたままをやってみてからでもよいではないか。相手に明らかな非があるとわかる場合でも、言われたことを「ハイ」と受けとめたあとで反論しても遅くはあるまい。

のっけから文句を言ったらどうなるか。かならず相手は反感を抱き、自分の非をわかっても認めたくなくなるだろう。明るい「ハイ」のひとことが、相手との壁をなくし、すべてのわだかまりを消し去る。

丸山敏雄は『純粋倫理原論』という著書にこう書いている──「『ハイ』は簡単なようではあるが、ただ人の言葉を聞いて『ハイ』と返事するのではない。すべてを受け容れる絶対境の表現である」

(次回は5月第2週号掲載)

〈プロフィル〉 丸山敏秋(まるやま・としあき) 1953年、東京都に生まれる。筑波大学大学院哲学思想研究科修了(文学博士)。一般社団法人倫理研究所理事長。著書に『「いのち」とつながる喜び』(講談社)『至心に生きる 丸山敏雄をめぐる人たち』(倫理研究所刊)ほか多数。最新刊『朗らかに生きる』(倫理研究所刊)。

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