〈コラム〉読書と判断力

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倫理研究所理事​長・丸山敏秋「風のゆくえ」 第168回

加齢とともに、肉体的な衰えを感じない人はないだろう。ただし人によって、どんな衰えなのかは異なる。トレーニングによって予防できる衰えもある。

筆者の場合、若い頃から視力は良かった。検眼で「2・0」とされたこともある。揺れる電車の中で習慣的に本を開いても衰えなかった。ところが55歳を過ぎてから、老眼が進行し始めた。今や老眼鏡なくして本はさっぱり読めない。眼鏡を使うと目が疲れて、頭が重くなる。長時間の読書はできなくなってしまった。

そのためもあって、400頁を超える本は敬遠したくなる。手に取っても、根気が続かず、流し読みで済ませてしまう。ときには「どうしてこんなに大量の文章を書く必要があるんだ!」と著者に文句を言いたくもなる。

独特な存在感を発揮した芸術家の岡本太郎は、若き日に10年ほどフランスで過ごし、ソルボンヌ大学では本格的に美学や民族学も学んだ。後年に書いた「思想とアクション」という一文の中にこうある──「いつも読書しながら、一種の絶望感を覚える。確かに面白い。対決もある。だが眼と頭だけの格闘はやはり空しい。人生はまたたく間もないほど短いのである」

そして岡本は、かつて一世を風靡した実存主義の哲学者と知られるハイデガー、ヤスパース、サルトルをやり玉にあげる──「実存を説きながら、なんであのようにながながと証明しなければならないのか。その間に、絶対の時間が失われてしまう」と。

あるときは実際にサルトルに面と向かってこう言ったそうだ──「あなたの説には共感するが、あのびっしりと息もつまるほど組み込まれた活宇のボリューム。あれを読んでいる間、いったい人は実存しているだろうか?」。サルトルは奇妙な顔をして岡本を見返したという。

思わず笑ってしまうが、いたく共感もできる。相手に思いを伝え、自説を納得させるのに、膨大な文章が必要とはかぎらない。たった1枚の絵図でも、一首の短歌でも、伝えられるものは伝わるだろう。芸術家は概して文章も簡にして要を得ている。

だからといって、短時間の読書で名著の内容を伝えるようなインスタント本ばかり目にしていると、ちっとも記憶に残らず、精神の糧にはならない。イギリスのルネサンス期の政治家で哲学者のフランシス・ベーコンの随筆集(渡辺義雄訳、岩波文庫)を眺めていたら、こんな言葉に出会った。

ある書物はちょっと味わってみるべきであり、他の書物は呑み込むべきであり、少しばかりの書物がよく噛んで消化すべきものである。すなわち、ある書物はほんの一部だけ読むべきであり、他の書物は読むべきではあるが、念入りにしなくてよく、少しばかりの書物が隅々まで熱心に注意深く読むべきものである。

たしかにそうだと思う。問題は、3種の読み方のどれを選ぶかを、きちんと判断できるかどうかだ。そのためにはベーコン先生が教えたように、一切の先入見と謬見すなわち偶像(イドラ)を去って、経験(観察と実験)を大切に生きるしかないのかもしれない。何事も簡単ではない。

(次回は4月第2週号掲載)

〈プロフィル〉 丸山敏秋(まるやま・としあき) 1953年、東京都に生まれる。筑波大学大学院哲学思想研究科修了(文学博士)。一般社団法人倫理研究所理事長。著書に『「いのち」とつながる喜び』(講談社)『至心に生きる 丸山敏雄をめぐる人たち』(倫理研究所刊)ほか多数。最新刊『朗らかに生きる』(倫理研究所刊)。

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