〈コラム〉たかが挨拶、されど挨拶

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倫理研究所理事​長・丸山敏秋「風のゆくえ」 第83回

衣食足りて礼節を忘れるのは、人の世の常なのであろう。

食べ物や物資に恵まれた国で、美しい挨拶も行き渡ったと聞いたことはない。型どおりの挨拶など窮屈とばかりに、言葉もお辞儀も、出し惜しみしている。礼節の基本は「型」から入るのが普通だろうに。

日本語学者の芳賀綏氏(東京工業大学名誉教授)は、NHKの解説委員としても「視点・論点」などの番組で卓見を披露されてきた。筆者が学生時代に本格的な相撲を教えてくれた恩師でもある。『失語の時代』という先生の著書にこんな一節があった。──「型にはまったのでは“主体性”がない、とでも言うつもりだったら、考えなおす要がある。型は目的ではない。手段なのだ。人間が型にはめこまれるのでは主体性がないが、人間がココロを通わせるために型を使うのは、立派に主体性のある行為である」。

挨拶の「挨」も「拶」も、相手に迫って強く押したり、背後から撃つ動作のことだという。禅宗では、問答することを挨拶と呼んだそうだ。いずれも、相手と深く関わることを示唆している。日本式の挨拶は、「おはよう」とか「こんにちは」といった定型句に、お辞儀という動作を伴う。そこに当人の心のありようや人間性が現れ出る。「型」どおりに実行していると、いつしかココロ(心)が伴うようになるものだ。

挨拶が人間関係でとりわけ大事なのは、それが相手の存在を認める行為、ということにある。「おはよう」とは「お早くございます」から出た言葉だが、朝の時刻が早いことにあまり意味はない。「おはよう」を口にすることで、その日に会った人に対して、みずから心を開き、相手の存在を認める姿勢を表わしていることが意義深い。

子供への躾(しつけ)は、なんといっても美しい挨拶から始めたい。わが子には挨拶をするよう強く諭しながら、自分からはいっこうに声をかけない親がいる。これでは躾どころではない。

道でばったり会った面識ある人に「こんにちは、どちらへ?」と声をかけると、「余計なことを…」の気持ちが顔に出る人もいる。「ちょっとそこまで」と応答すればいいではないか。

一人では生きていけない人間にとって、孤立や孤独ほど怖ろしいことはない。朝でも昼でも、会う人の誰からも声をかけられなかったら、生きる気力は萎えてしまう。

人から声をかけられて嬉しいのならば、自分から先に声をかけるよう心がけるのが道理というものだ。少しでも面識があるのなら、挨拶に躊躇はいらない。積極的な挨拶が、思いがけないステキな出会いをもたらしてくれることもある。

挨拶は人に対してだけではない。先祖への挨拶はもちろん、食前食後の挨拶も欠かしたくない。いつも使っている物品に対して「今日もありがとう」と挨拶したとてよいではないか。

たかが挨拶と侮るなかれ。不和や乱れはそんな小さなことを疎かにすることから生じる。信頼や絆は、そうした小さなことの履行から育まれる。

(次回は3月第2週号掲載)

丸山敏秋

〈プロフィル〉 丸山敏秋(まるやま・としあき) 1953年、東京都に生まれる。筑波大学大学院哲学思想研究科修了(文学博士)。社団法人倫理研究所理事長。著書に『「いのち」とつながる喜び』(講談社)、『「いのち」の輝き』(新世書房)など多数。

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