〈コラム〉奇跡のピアニストは健在

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倫理研究所理事​長・丸山敏秋「風のゆくえ」 第95回

深い感動は、たとえ時が過ぎても、その場面を思い起こせばすぐによみがえる。最近の筆者にとって、昨年4月にサントリーホールで開催されたリサイタルがそうだ。演奏したのは93歳のピアニスト、アメリカ在住のルース・スレンチェンスカさんである。

彼女は9歳の時に、急病になったセルゲイ・ラフマニノフの代役をつとめ、コンサートを成功させた。神童と称されて華々しい活躍をしたものの、40代半ばに商業音楽の世界から突如として引退。以後は自身の練習とピアノ教授で日々を送っていた。

そのルースさんと台湾で偶然に出会い、80代後半だった彼女をもういちど表舞台に引っぱり出し、日本に招いてはローカルな演奏会を重ねてきた人がいた。岡山県岡山市で歯科医を営み、自身もチェロ奏者の三船文彰氏である。来日すること10回。ついに伝説のピアニストは、帝都東京の大舞台において本格的な日本デビューを果たした。

筆者がルース・スレンチェンスカさんの存在を知ったのは7年前になる。三船氏と出会い、意気投合したのが始まりだった。来日中のルースさんを、富士山麓御殿場市にある研修センターに招待したこともある。身長は140センチに届かず、子供のように小さな手の彼女が、どうして難曲を易々と弾きこなせるのか不思議でならなかった。ショパンもリストもベートヴェンもブラームスも、ルースさんの奏でる優しく高雅なピアノ曲となって、胸の奥底にまで響き渡るのである。

サントリーホールでのリサイタルの2カ月前に、ルースさんはインフルエンザを患っていた。白内障の手術も受けた。体力は極度に低下していたのだが、「あの方はE.T.ですから、きっと障碍を乗り越えて歴史的なリサイタルを実現させるでしょう」と三船氏はメールで書き送ってきた。

当日のサントリーホールは満席。演奏の前半はブラームスの迫力ある大作、後半はベートーヴェンのソナタとラフマニノフの「絵画的練習曲」が強く印象に残った。演奏者が病み上がりの93歳と、誰が信じられようか。当日はご都合で参加できなかった美智子皇后は、ルースさんと三船氏を皇居に招かれ、3度目となるささやかな演奏会を開かれたという。

その名演奏もさることながら、ルースさんの常に笑みを絶やさないお人柄と、超前向きな姿勢にも魅了される。口癖は「今日の演奏が今までで最高よ」──心の底からそう思い、そのための一日8時間にもおよぶ練習を欠かさないのである。

去る1月に94歳になったルースさんは「過去にはいっさい関心を持たない。いちばん興味を持っているのは、将来のことだけです」とも言う。練習に関しては妥協がいっさいない。──「いちばん難しいことは、練習することではなく、そのような苦しい練習のあとでもまだ音楽が好きでいられることですよ」。

ルース語録には大いに励まされる。なお三船氏が編んだ「ルース・スレンチェンスカの芸術」と題した9作のCDが販売されている。関心ある人はネットで検索を。

(次回は3月第2週号掲載)

〈プロフィル〉 丸山敏秋(まるやま・としあき) 1953年、東京都に生まれる。筑波大学大学院哲学思想研究科修了(文学博士)。社団法人倫理研究所理事長。著書に『「いのち」とつながる喜び』(講談社)、『ともに生きる』(倫理研究所)など多数。

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