食器を売り始めてからのこと
(7月9日号からの続き)ウエートレスをしながらチップをため、半年かけて2000ドルを作りました。これを日本に送って、有田焼を5カートン購入。これを手で持ってマンハッタンをぐるぐる行商して歩くわけですが、全滅でした。チップをためては船便で瀬戸物を送ってもらって、でも何回やっても売れない。これで山のように不良在庫ができてしまいました。
ある週末、日系の店舗が集まっていたフォートリーのモールで空き店舗を発見。大家さんに「必ずたくさん日本人を集めるからただで貸してくれないか。日本人が集まれば、他店舗の収入にもなるでしょう?」と必死で交渉し、土日2日間だけ借りられることに。
無我夢中で1カ月間毎週末、日本語学校の前や日系のお店の前でチラシを配りました。結果はびっくり、10時の開店前から人がいっぱい。子供を土曜日の日本語学校に送った後の親御さん達でした。この大家さんに支えられましたね。彼も様子を見に来て、この「有田のみの市」は合計2回実施しました。28歳の頃でした。
最初の受注はブルーミングデールでした。
ウエートレスをしながら、食事休憩時に毎日、公衆電話からブルーミングデールに電話していたんです。食器のバイヤーさんに繋いでもらえませんか…って。毎日かけ続け、切られ続け、でも優しいオペレーターに当たるのを待って毎日。1カ月半後、ついに「あなた本当に話したいのね! 繋ぐわ!」と言われ、バイヤーと面会のアポが取れました。このチャンスを逃せば次はない!と思って食器を見るバイヤーさんの顔を食い入るように見ていました。すると目線が、ギフトボックス入りのタッパーウェアに落ちたのに気づき「これは日本でも人気商品です!」と言いました。彼は、会社の規模、年商、社長の名前など一切聞かず「在庫はあるのね? オンタイムにきちんと届けられる?」とこれだけを聞きました。細身の、優しい男性でしたね。「YES!」と答え、取引が始まりました。
当時の私はまだ20代、小柄で、本当に頼りなく見えたと思います。「チャンスをあげよう」と思ってくれたのでしょう。彼らが私を信頼してくれたこと、忘れられないのです。(第3章につづく)
かわの・さおり 1982年に和包丁や食器などのキッチンウエアを取り扱う光琳を設立。2006年米国レストラン関連業界に貢献することを目的に五絆(ゴハン)財団を設立。07年3月国連でNation To Nation NetworkのLeadership Awardを受賞。米国に住む日本人を代表する事業家として活躍の場を広げている。
(2016年11月26日号掲載)