丸山敏秋「風のゆくえ」第16回
日本の歴史で、幕末維新ほどエキサイティングな時代はない。かくも多くの英傑が、この国にいたものかと驚き入る。変革の原動力は、幕府に対するうらみつらみではない。恐怖心である。欧米列強の植民地にされるのは真っ平ご免と、強い日本を築き直すための動乱が始まったのだ。
どんな国づくりをしたらいいのか、暗中模索である。そこに、彗星のごとく現れた人物がいた。学問(当時の主流は朱子学)に秀で、頭がやたらキレる。弁の立つこと剣よりも鋭い。思考は柔軟で、スケールがでかい。福井藩の英邁な藩主(松平春嶽)はその男に惚れ込み、藩の政治を委ねるばかりか、幕政にまで参画させた。
熊本藩士の横井小楠(1809〜1869)である。のちに「維新の十傑」の一人に列せられた。
小楠の人生は波乱に富んだ。原因の一つは酒。酔うと乱れ、幾度か大失態を演じた。江戸では賊に襲われて逃げ、居宅から長刀を手に戻ると、仲間が惨殺されていた。武士にあるまじき行為だと、切腹こそ免れたものの蟄居謹慎。そんな逆境からも這い上がった。
小楠には欠点をはるかに上回る魅力があったからだ。彼の話を聞きに、人々が群れた。吉田松陰とは意気投合し、高杉晋作は「海内(かいだい)一、二の人士」と畏敬した。坂本龍馬は勝海舟の使いで、何度も小楠のもとを訪ねている。海舟は『氷川清話』でこう評した。
「おれは、今までに天下で恐ろしいものを二人見た。それは、横井小楠と西郷南洲とだ。…その(小楠の)思想の高い調子な事は、おれなどは、とても梯子(はしご)を掛けても、及ばぬと思った事がしばしばあったヨ。…横井の思想を、西郷の手で行われたら、もはやそれまでだと心配していたに、果たして西郷は出て来たワイ」
なんのことはない、小楠の思想を西郷に吹き込んだのは、海舟自身だった。
横井小楠が力説したのは、この国を富ませ強くする「富国強兵」の具体策である。それには、国民を大切にする政治が立派に行われなければならない。どうしたらいいのか。
何よりも「有徳」の名君が中心にいなければならない。徳とは、私利私欲を排した「仁」である。外国にも名君はいると、彼はワシントンを尊敬し、居間に肖像画を飾ったという。
しかし小楠は外国かぶれではない。洋学すら修めていない。彼は儒教が理想とした「道義国家」を徹底追求し、現実に即して説いた人だった。明治新政府も、彼の思想を下敷きに基本方針を定めた(「五箇条のご誓文」等)。けれども道義国家の建設は、理想のままで終わっている。
横井小楠、あるいは西郷隆盛が思い描いた「維新」の夢を、もう一度見直す必要があろう。自利や党利に走る政治家たちを一喝改心させる手助けを、天上からしてもらえないだろうか。
(次回は8月11日号掲載)
〈プロフィル〉 丸山敏秋(まるやま・としあき) 1953年、東京都に生まれる。筑波大学大学院哲学思想研究科修了(文学博士)。社団法人倫理研究所理事長。著書に『「いのち」とつながる喜び』(講談社)、『今日もきっといいことがある』(新世書房)など多数。