倫理研究所理事長・丸山敏秋「風のゆくえ」 第74回
カトリックのアントニー・デ・メロ神父は、1931年にインドのボンベイ(現ムンバイ)で生まれ、17歳でイエズス会に入会した。欧米で哲学や心理学を学び、優秀な霊的指導者に成長した神父は、インドに帰ってカウンセリング研究所「サダナ」を主宰。56歳で天に召されたが、彼の著書は日本語訳もある。『蛙の祈り』という面白いタイトルの本の巻頭の、次のような寓話が印象深い。
――ある夜、魂の兄弟であるブルーノが祈っていると、食用ガエルの鳴き声がうるさくてならない。無視しようすればするほど気が散る。彼は窓から顔を出して叫んだ。「静かにしろ、祈っているんだからな」。
聖者の誉れ高いブルーノの一喝で、あたりはしんと静まり返る。ところが祈っているブルーノの中に、別の響きがわき起こってきた。「もしかして神は、おまえの唱える祈りと同じくらい、カエルの鳴き声を喜んでおられるのではないか?」。そんなバカなと思いながらも、心中に響く声は消えない。「そもそも神はなぜ、音をつくり出されたのか?」
その答えを見つけ出そうと、ブルーノは窓から身を乗り出して叫んだ。「さあ、みんな歌うんだ」。カエルたちの大合唱が再び天空を震わせる。ブルーノが全身を耳にして聴いていると、鳴き声は神経に障る物音ではなくなってきた。この大音声こそが夜の沈黙をいっそう豊かにしていると気づいた。こうしてブルーノの心は、生まれて初めて宇宙と調和したのである――。
長い紹介になったが、この寓話は、心をこめた祈りの前では騒音すら沈黙をきわだたせる素材となり、宇宙(神)との調和に導くのだと教えてくれる。
キリスト教の「祈祷」の伝統に対して、東洋には各種の「瞑想」の伝統がある。ヨーガや禅はその典型で、現在でも好んで修行している一般人が大勢いる。祈祷も瞑想も静かな場所で行うのがふさわしいけれども、外部の騒音によって心が揺れるようでは、まだまだ深みには至れない。
私事で恐縮だが、家に居るときには早暁、自転車で15分ほどの距離にある大きな公園へ行き、園内を約1時間、早足で1周するのを日課としている。早春から初夏にかけての爽快さは格別だが、四季それぞれに深い味わいがある。季節の草花や朝日を受けて輝く木々を見るともなく眺め、賑やかな野鳥の声を聴くともなく耳にして歩きつづけると、深い瞑想状態に入っていくのがわかる。
脳の半分ほどがまだ眠っている早朝だからこそ、入りやすいのだろう。外部刺激に身も心も任せていると、ときに天啓のようなひらめきが得られたりもする。自分でそれを「ウオーキング禅」と名づけた。
祈祷も瞑想も、その深さと純度が問われる。「もし神が人間の祈りをそのまま聞き届けていたならば、人間はすべてとうの昔に滅びていただろう」とローマの哲人エピクロスは言った。なぜなら人間はたえず多くのむごいことを神に祈っているからだ。
純度とは、無私の度合いである。
たとえわずかな時間でも、日に一度は自分を空しくする時間を持ちたい。魂の栄養として、それほどふさわしいものはない。
〈プロフィル〉 丸山敏秋(まるやま・としあき) 1953年、東京都に生まれる。筑波大学大学院哲学思想研究科修了(文学博士)。社団法人倫理研究所理事長。著書に『「いのち」とつながる喜び』(講談社)、『「いのち」の輝き』(新世書房)など多数。