倫理研究所理事長・丸山敏秋「風のゆくえ」 第67回
佐賀鍋島藩の藩士だった山本常朝(1659~1719)の口述筆録である『葉隠』は、武士道精神を伝える書物として名高い。しかし硬派な内容ではなく、もっぱら武士の処世術が説かれている。10年ほど前にこの古典をひもといていて、次の一節に目がとまった。
「身分の高い人から招かれたときなど、〈面倒で嫌だな〉と思って行ったりしては、座をとりもつことなどできない。〈これはなんとも有り難いことだ〉〈さぞや面白いこともあるだろう〉と思い込んで行くがよい」(筆者意訳)
まことにその通りだと感心していると、「今日もきっといいことがある」という文言が浮かんだ。朝起きて神棚を拝すときに、この文言を心に念じると、なかなか気分がいい。明るい気持ちで一日のスタートが切れる。
というのも、公益団体の理事長という仕事柄、筆者の年間の主要スケジュールはほぼ決まっている。毎月の執筆も定型化したものが多い。日々の仕事に一つとして同じものはないのだが、10年も同じ立場にいると、心の中に一種の「慣れ(馴れ)」のようなものが生じてくる。窮屈な行事が予定されている日は、「またか」「どうせ」と心が曇ってしまう。
〈これではいけない〉としみじみ思い、「今日もきっといいことがある」を朝のおまじないのように唱えることを三月ほどつづけてみた。〈今日はちょっとつらい仕事がある〉という朝は、いつもより強く念じる。すると気分はいくらかでも晴れてくる。これはなかなか良き習慣だと、月刊誌の連載に「今日もきっと…」と題する一文を書いた。6年前に出した拙著のタイトルにも使用した。
これまでに読者からの好反応を得ている。「毎朝唱えています。気分爽快…」といった手紙をいくつも頂戴した。長さ20センチほどの黄色いボードに、「今日もきっと…」を黒々と印刷したものを送ってくれた人もいる。それを家や会社の目につく所に貼り、人にも配って喜ばれているという。
日々、思い通りにはならないことが多い。マンネリモードからも容易に抜け出せない。心は暗く湿りがちだ。そんなときに、この朝のおまじない言葉はなかなか効き目がある。
心を明るく保てば、本当にいいことが起こる。陰気な人に誰が寄り付こうか。明るい人のもとには、人も物も情報も集まり、さまざまな出会いによって運命が好転していく。一日のスタートである朝を、明るい気持ちで迎えたいものだ。「夢は夜ひらく」という歌があったが、夢は朝にこそ花開かせたい。
そういえば『葉隠』には、気持ちが暗いと顔に表れるので、そんなときは男でも頬に薄く紅を塗って外出するがよい、とも書かれている。さすが武士道は、単なる身だしなみを超えている。心は急には変わらない。言葉でも薄化粧でも、まずは形から入り、続けるのが実践である。
今日もきっといいことがある。――そうに違いないのだ。
〈プロフィル〉 丸山敏秋(まるやま・としあき) 1953年、東京都に生まれる。筑波大学大学院哲学思想研究科修了(文学博士)。社団法人倫理研究所理事長。著書に『「いのち」とつながる喜び』(講談社)、『「いのち」の輝き』(新世書房)など多数。