倫理研究所理事長・丸山敏秋「風のゆくえ」 第63回
やや旧聞に属するが、ビジネスの世界で「ティッピング・ポイント」が注目を集めた。物事が広がったり流行するプロセスは、けっして直線的ではない。ある閾値を越すと、一気に上昇したり下降する。その閾値を傾く(tipping)点(point)という。
典型的なのは、感染症の拡大である。潜在していた感染症は、ある時点のちょっとしたきっかけから、爆発的に広がる。日本では、1984年に一般家庭向けに発売されたファクシミリが、3年を過ぎて一気に100万台が売れるようになった。ニューヨーク市では1992年に2154件もの殺人事件が起きたのが、5年後には770件に激減したという。そうした事例は事欠かない。
もう半世紀以上も前に、スタンフォード大学のベレット・M・ロジャース教授が「イノベーター理論」を提唱した。それによれば、商品購入に対する消費者の態度は五つのタイプに分類されるという。新しい商品を購入するのが早い順に、(1)イノベーター(導入者、2.5%)(2)アーリーアダプター(初期採用者、13.5%)(3)アーリーマジョリティ(初期多数派、34%)(4)レイトマジョリティ(後期多数派、34%)(5ラガード(出遅れ、16%)―となる。
新しい商品を初期に購入する(1)と(2)は、合わせても市場全体の16%しかないが、(2)の影響力はすさまじい。だがそれも(1)があってのことだ。わずか2・5%とはいえ、イノベーターの開拓こそが決め手となる。それを過ぎたあたりにティッピング・ポイントがあるのだろう。
マルコム・グラッドウェル著『ティッピング・ポイント』(2000年)では、豊富な事例をもとに、小さな変化が大きな変化を生む、非直線的な感染現象の条件を考察している。16年も前の本だが、その内容はいささかも色あせていない。読み進めていくと、周囲の事例と重ね合わせ「なるほど、これもまたティッピング・ポイントといえるかもしれない」と納得させられてしまう。人を動かすためのガイドとしても役立つ。
近年ではコロンビア大学講師のサイモン・シネックが、「イノベーター理論」を駆使した斬新なリーダー論を展開し、ネット動画でも注目を集めている。
そうしたティッピング・ポイントの理論は、かつて反響を呼んだ「100匹目のサル」現象を思い出させる。宮崎県の幸島に棲息する1頭のサルがイモを洗って食べるようになり、同じ行動をとるサルがおよそ100匹になったとき、イモ洗い行動が群れ全体に広がり、さらに場所を隔てた大分県の高崎山のサルの群れでも見られるようになったという。この話は生物学者ライアル・ワトソンの『生命潮流』に載っているが、著者による創作だった。
しかし創作とはいえ、物事の広がりや流行に、ある臨界点のような閾値があるのは確かだ。その値がはっきりわかればビジネスの苦労も減るだろうが、よくわからないからこそ努力の甲斐もある。
未来が見えてしまったら希望は生まれない。まずは2.5%超えを目標に、可能性を信じて励む営みが、ティッピング・ポイントを呼び込むのではないか。
〈プロフィル〉 丸山敏秋(まるやま・としあき) 1953年、東京都に生まれる。筑波大学大学院哲学思想研究科修了(文学博士)。社団法人倫理研究所理事長。著書に『「いのち」とつながる喜び』(講談社)、『「いのち」の輝き』(新世書房)など多数。