歴史力を磨く 第25回
NY歴史問題研究会会長 髙崎 康裕
先の大戦末期に、日本の戦争終結に向けた動きはアメリカの諜報網により、既にアメリカの国家指導者たちの知るところとなっていた。アメリカ陸軍省が傍受した通信を大統領に報告する、「マジック報告書」と呼ばれる機密報告書があった。サイパン島が陥落した翌月の昭和19(1944)年8月11日付の報告書では、日本がソ連を仲介として講和を模索している事実が既に詳細に書かれていた。
となれば、アメリカがそのきっかけを用意すれば、戦争の早期終結も可能と判断された。しかし、それを難しくしたのがトルーマン大統領が拘った「無条件降伏」という縛りだった。この「無条件降伏」は、条件を定めて終戦を実現する過去のやり方とは異なり、相手国が無条件で降伏するまで「戦争を継続」し、相手国を「完膚なきまでに叩き潰す」ものと理解されていた。連合国がこの言葉を使ったことで、日本側には「最後まで戦う以外にない」と決意させたとも言え、「無条件降伏」という終戦条件は、確実に和平交渉の障壁となっていた。
事態が大きく動いたのは昭和20年の4月である。アメリカ軍が沖縄上陸作戦を開始したのが4月1日、ソ連が日本との中立条約を破棄すると発表したのが4月5日、鈴木貫太郎内閣が発足したのが4月7日、そして4月12日にはルーズベルト大統領が死去し、トルーマン副大統領が大統領の地位に就いた。トルーマン大統領は、就任早々の4月16日の議会演説で、枢軸国(日独伊)との戦争終結の条件は「無条件降伏」だと明言した。ドイツが降伏した際の5月8日の声明でも、大統領は「日本軍が無条件で降伏するまで攻撃を停止しない」と言い放った。
一方、日本の政府と統帥部は、提示された「無条件降伏」とは国を明け渡すことであり、それを受諾すれば国家は解体され、天皇は処刑され、国民は奴隷に貶められると理解した。鈴木貫太郎首相も、アメリカの標榜する無条件降伏だけは絶対に受け容れることは出来ないとの決意を、施政方針演説でも明らかにしていた。そこから日本としては「国体護持」、つまり「天皇の地位の保証」を絶対条件として、終戦の交渉に臨んでいたのである。
アメリカもまた、それまでの日本軍の戦いぶりからしても、日本を「無条件降伏」させるには犠牲があまりに大きいと考えた。そこで方針を変え、ポツダム宣言を発出し、そこに記された条件を受け容れさせることによる「条件付降伏」という形を取り、最終的に日本の停戦合意を取り付けることが出来たのである。すなわち、日本は決して「無条件降伏」をしたのではなかった。しかし、それをそうだと信じ込まされてきたのも、占領方針に副った戦後教育によるものなのである。
(次回は9月22日号掲載)
〈筆者プロフィル〉髙崎 康裕(たかさき・やすひろ)
ニューヨーク歴史問題研究会会⻑。YTリゾリューションサービス社⻑として、日系顧客を中心とした事業開発コンサルティング、各種施設の開発企画・設計・エンジニアリング・施⼯管理業務等を⼿掛けている。シミズディベロップメント社⻑、Dillingham Construction代表取締役、東北大学特任教授歴任。現東北大学総⻑特別顧問。著作に「建設業21世紀戦略」(日本能率協会)、「海外業務ハンドブック」(丸善)、 「海外プロジェクトリスクへの対応」(エンジニアリング振興協会)など多数。