ジャッキー・チェン

0

アメリカに受け入れられなくても、自分のスタイルを変えたくなかった

「ガチ!」BOUT.150

1

世界的なアジアのアクションスターに、このたび「ニューヨーク・アジア映画祭」から生涯功労賞(Life Time Achievement)が贈られた。毎年夏に開催される同映画祭に長年の功績が認められての受賞。その足でトロント、その翌日にはインドのそれぞれの授賞式に出席予定という相変わらずの超多忙な中、わずか15分ながらお時間を取っていただいた。デビューからアメリカ進出時のエピソード、今後の香港映画界、そしてゴールについてお話を伺った。
(聞き手・高橋克明)

NYアジア映画祭で生涯功労賞 

生涯功労賞受賞、おめでとうございます。

ジャッキー サンキュー(にっこり)。アリガトウ(日本語で)。

受賞理由に、それまでシリアス路線が主流だったアクション映画に、初めてコメディーの要素を取り入れたことも偉大な業績だ、と言われていました。

ジャッキー 僕がデビューしたころの70年代の香港映画界は俳優が監督の指示通りに演じるだけが主流のスタイルだったんだよ。なので、僕もデビューの後、主演映画を数本撮ったけど、その全てはヒットしなかった。監督の指示通りに動くだけで「こうやって、こうやって」(ジェスチャー付きで)。その動きはブルース・リーのコピーでしかなかったんだ。本当に本当に嫌だったね(苦笑)。でもどうすることもできなかった。当時の香港映画では監督の言うことが全てだったからね。

それだけ偉大な先駆者がいた業界だった、と。

ジャッキー ブルース・リーが亡くなった後はみんながみんな彼のモノマネをしてたね。役者(の名前)もブルース・なんとか、ブルース・かんとか…そんなのばっかり(笑)。そういう僕だって、初めて主役に抜てきされた作品には、その時は本当にうれしくってうれしくって、興奮してたんだけど、その作品のポスターにはセカンド・ブルース・リー(次世代のブルース・リー)って大きな字で書かれてた(笑)。その下にちっちゃくちっちゃくジャッキー・チェン…って。

(笑)

ジャッキー 新作といえばブルース・リーを意識した作品ばかりだったしね。その全部が同じスタイルで、ストーリー重視ではなかったよ。何かといえば「Look at me ! I fight you !(こっちを見ろ! やってやるぞ!)」。もちろん僕の(当時の)作品も「Look at me! I fight you !」「Come on ! Beat you !」「Look at me !」(ジェスチャー付きで)そればっか(笑・うんざりした表情)。そんなシーンが10分も続くからあらすじなんてあったもんじゃない。

DSC01046 その流れを壊したのがあなただったわけですよね。

ジャッキー ある日、ユン・ピョウと話し合ったことを覚えてる。「こんなマンネリ化をどうやったらブレーク・スルーできる?」って。彼は「ブルース・リーはレジェンド(伝説)だけど、ジャッキーは彼とは違う。自分らしいことをすればいいんだ」って言ってくれたんだ。それならコメディーをしよう、ブルース・リーとは真逆のスタイルでやろうってことになったんだよ。その後、最初に撮ったのが「スネーキーモンキー/蛇拳」(1977)なんだ。

あの作品を何度も観たくて、当時、小学生だった僕はビデオデッキを買ってほしいと両親にねだりました。(笑)

ジャッキー ホントに!? 君が? あぁ、そう(にっこり)。でもそこからも大変だった。80年代に入って撮った「ヤングマスター」(80)が(当時)香港映画史上ナンバーワンヒットになったら、今度は香港の全ての映画会社が「ヤングスター」とか「ヤングシスター」とか「ヤングブラザー」とか類似作品をリリースし始めちゃった。

あはははは。

ジャッキー いや、いや、いや、笑ってるけど、本当の話だよ(笑)。だから僕たちは追われるように次から次へとまた違う(コンセプトの)作品、また違う作品と、撮らなきゃいけなくなった。撮る必要があったんだ。今、考えればそれが次から次へと新しい映画を生み出すエネルギーにはなっていたんだと思うけれどね。

そこから最初のハリウッド進出になるわけですが、アジアで誰もが知るスーパースターは当時ハリウッドでは無名だったわけですよね。

ジャッキー もちろん。多分、アジア人のアクションスターとしては2人目だと思う。ブルース・リーの後は僕だけだったと思うよ。「バトルクリーク・ブロー」(80)という作品でアメリカの映画界に進出したんだけど、あまり良い評価は得られなかったね。アメリカ人には「何で10分間も闘うの?」って言われて驚いたのを覚えてるよ。激闘シーンが長すぎるって。「殴られても、蹴られても立ち上がる。ジョン・ウェインを見てみろ。ワンパンチ(一撃)で倒すぞ。ブルース・リーだってワンキックで敵をやっつける」。

(笑)当時のヒーローはそんな感じですね。

ジャッキー それはイージーだよ。ワンパンチ。ワンキック。そっちの方が簡単だよ(笑)。でもそれは僕のスタイルじゃない。結局、その後約2年間アメリカに滞在したけれど、とてもとてもディスアポイント(残念)だった(苦笑)。まず英語がしゃべれなかったしね。監督も、格闘シーンより、演技より、僕が何かしゃべるたび「ベリーグッドイングリッシュ! ベリーグッドイングリッシュ!」って言うんだよ。(笑)

それは嫌味で?

ジャッキー 多分、気を遣ってくれたんだと思う。どうしてもチャイニーズアメリカンのようにしゃべれないからね。とにかくあの2年間は今思い出しても…ディスアポイント(残念)(笑)。自分のスタイルがアメリカに受け入れられなくても、僕はスタイルを変えるつもりはなかったからね。

DSC01092

それから15年後、“ジャッキー・チェン”スタイルがハリウッドで受け入れられました。僕なんかは「気付くの遅いよ! アメリカ人」と思ってました。

ジャッキー 面白いよね。あのね、ある日シルベスター・スタローンのオフィスから僕の事務所に電話があったんだ。僕は「うそだろっ」って言ったんだよ。(マネジャーが)「彼があなたにアメリカに来てほしいって言ってます」って。“うそだろ”“いや、ほんとです”そうしたら、実際にスタローンのところのとても美人な秘書が香港空港までやってきて、一緒に来てほしいってファーストクラスのチケットを手渡されたんだよ。そのままマネジャーとハリウッドに飛び立ったんだ。(興奮して)

それは何年前の…。

ジャッキー (聞かずに)到着してすぐにビバリーヒルズの撮影現場に連れて行かれて。彼は僕を見るやいなや「Wow! ジャッキー・チェン!」って言って近づいてきて、昔からの友達みたいにこうやって(握手のジェスチャー)こうやって(ハグのジェスチャー)…。知り合いでもないのにね。(笑)

既にスタローンがあなたの大ファンだったことは映画ファンの間でも有名な話でしたよね。

ジャッキー (全然、聞かずに)その後撮影現場を案内されたんだけど、大勢のスタントマン、カメラマンなどスタッフたちがいる中、僕のことを1人ずつに「おい、ジャッキー・チェンだぞ」って得意な顔して言い回ってね(笑)。みんな立ち上がって歓迎してくれたよ。トレーラーにも招待されたんだけど「ジャッキー、見てくれ」って「ポリス・ストーリー/香港国際警察(シリーズ)」(85)や「プロジェクトA」(83)のビデオがズラッと並んでる棚を見せられたんだ。「映画のネタに困ったらジャッキーの作品を観て盗むんだ」って笑ってたね。(笑)

一般の人よりもハリウッドの映画関係者の中で特に有名だったわけですね。

ジャッキー 他にも(スティーブン・)スピルバーグやジェームズ・キャメロン、ハリウッドの有名どころがみんな支援してくれて。(ハリウッドで)僕を知らない人はジャッキー・チェンって一体何者なんだって思ってた人もいたよ。(笑)

30年間、ずっと考えていた質問があります。どうやったら次から次へと、あれだけのアクションシーンのアイデアが出てくるのでしょう。

DSC01043

ジャッキー 時々、僕って天才? って思うんだよ(笑)。イヤ、イヤ、ホントに!(笑)。僕はテクノロジーのことはよく分からない。他にもよく分からないことだらけだよ。知らないことの方が多いと思う。だからこそよく分からないCGではなく、実際にやっていく。自分のスタントチームと考えていくんだ。実際目に見えるもの(目の前のテーブルをたたき、座っている椅子を触り)何を使って、どう動くか。どう振りを付けていくか。もしテクノロジーのことを熟知していると、簡単に映像は作れるかもしれない。だけど、僕は生身の人間と闘って、それを撮っている。机に乗って、下にもぐって、こうやって、こうやって。目に入るものが武器になる。でも、その感覚は実はシンプルなもので、経験と時間と良い指導者がいれば可能なことなんだよ。

(当初の予定されていた取材時間をこの時点でオーバー。ジャッキーの背後でエージェントが腕時計を指してこちらをにらんでくる)

それでは最後の質問になりますが、今後のあなたの目標、夢は何でしょう。

ジャッキー 今ね、実はミュージカルの準備もしているんだよ。「I am Jackie Chan, Musical」というタイトルで、昔、同名の自伝本を書いたんだけど、

あ。日本語訳版、今日、持って来てます。(仕事を忘れ、自伝本を取り出す)

ジャッキー そうそう、コレ! サインしようか?

お願いします!!(興奮気味)

(アメリカ人のエージェント、鬼のような形相でこちらをにらんでくる)

ジャッキー 自分のキャリアはとてもエキサイティングだと思ってるので、ミュージカルにしたら面白いんじゃないかなって。子供時代のことや、僕の父がスパイで、実際に銃に撃たれた経験もあって、その後オーストラリアに亡命して、とかね。あとはブルース・リーとどうやって映画を作ったとか、そのあたりを紹介しながらね。

本業の映画の方ではどうでしょうか。

(エージェント、口を開けて、信じられないっ! といった表情でにらんでくる)

ジャッキー 「ヤングマスター」や「プロジェクトA」を撮った時のように僕はもう若くない。でもその分「ライジング・ドラゴン(Chinese Zodiac)」(2012)のようなストーリーに内容のあるモノを撮っていきたいんだ。そして今後の香港映画を担っていく若い人を支援していきたいと思ってる。確かに(80年代)当時と比べて今の香港映画界にはサモ・ハン・キンポーやユン・ピョウのようなアクションもできて演技もできるようなスターがいない。昔とのギャップは感じるよ。香港にはもうスタントができる俳優すらいないんだ。NEXT(次の世代の)ジャッキー・チェンは見あたらない。僕は40年以上のキャリアだけど、映画学校も行かずに現場でたくさんのことを学ばせてもらった。だから監督もできるし、脚本も書ける。スタントも、カメラも、コーディネートも映画に関する全てのことができる。ハリウッドに行った際「どうして全部できるんですか?」って驚かれたよ(笑)。クレーンを使ったアクションシーンも、5人のスタントマンを使った撮影シーンもスタッフに聞かれても何でも答えられた。なぜかって、ずっとそうやってきたからなんだ。だから僕は恵まれていた。でもみんながみんなそんな環境にはいられないよね。なので、僕は香港には昔のようにアクションスターを育てる学校が必要だと思ってる。

なるほど。今日は本当にありがとうございました(日本語で)

ジャッキー ハイ、アリガトウゴザイマシタ。See You Japan!(にっこり)

DSC01047

ジャッキー・チェン 職業:俳優・監督・脚本家
1954年生まれ。香港出身。幼少時に中央戯劇学院で京劇や武術を習得。70年代初頭、香港のカンフー映画ブームにブルース・リー作品などにスタントやエキストラで出演する。リーの死後、コメディ路線の新しいカンフー映画を開拓し、日本での初公開作「ドランク・モンキー/酔拳」(78)は大ヒットを記録。「クレージー・モンキー/笑拳」(79)で監督にも初挑戦し、アジア圏での人気が確実なものになっていく。米国へは「バトルクリーク・ブロー」(80)で進出し、「レッド・ブロンクス」から人気が出始め、「ラッシュアワー」シリーズの大ヒットで不動の地位を築いた。その他の作品に「ポリス・ストーリー」「サンダーアーム」「プロジェクトA」「ベスト・キッド(2010)」などがある。

 

(2013年7月6日号掲載)

 

〈インタビュアー〉
高橋克明(たかはし・よしあき)
専門学校講師の職を捨て、27歳単身あてもなくニューヨークへ。ビザとパスポートの違いも分からず、幼少期の「NYでジャーナリスト」の夢だけを胸に渡米。現在はニューヨークをベースに発刊する週刊邦字紙「NEW YORK ビズ」発行人兼インタビュアーとして、過去ハリウッドスター、スポーツ選手、俳優、アイドル、政治家など、400人を超える著名人にインタビュー。人気インタビューコーナー「ガチ!」(nybiz.nyc/gachi)担当。日本最大のメルマガポータルサイト「まぐまぐ!」で「NEW YORK摩天楼便り」絶賛連載中。

 

Share.