蜷川幸雄

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海外で観客に通じるか
初日終わるまでは緊張しっぱなし

「ガチ!」BOUT.74

蜷川幸雄

先週の俳優、藤原竜也さん、勝地涼さんに引き続き、7月初め、ニューヨークで上演された戯曲「ムサシ」の演出を手掛けた蜷川幸雄さんにもインタビュー。海外での公演を多数行う日本が誇る演劇界の巨匠。蜷川さんだからこそ語れる、世界の演劇事情、そして4月に亡くなった脚本家の井上やすしさんと作り上げた「ムサシ」への思いを語ってもらった。(聞き手・高橋克明)

 

井上ひさしさん遺作「ムサシ」、NY公演への思い

いよいよ明日、初日を迎えます。今のお気持ちを聞かせてください。

蜷川 やはり緊張しますね。海外で舞台を作り上げる時は、システムにおいて(日本とは)文化的というか、習慣的なギャップが出てくるんですね。そこのところをどうやって折り合いをつけていくか、感情的にならず論理的に進めていかなきゃいけない。そこの問題は(ニューヨークに限らず)どこの国でもずーっとありますけどね。

今のお話を聞くと、演出家は舞台上だけでなく、一つの舞台を作る上で出てくるさまざまな問題も解決していく、それをすべてをひっくるめて“演出家”のお仕事といった感じですね。

蜷川 まさにそう! それも含めて、演出家の仕事だって言わざるを得ないですね。特に海外はね。ベルギーでは(ユニオンから)8時間労働って決められてて、8時間ごとに裏方スタッフが入れ替わっていくわけですよ。本番の日に全く新しい人が来ちゃうんだよね。できるわけないですよ。人が違ってて(けいこの時と)本番のドアの開閉なんか速度が違ってきちゃうじゃない。それで揉めて全部中止にして、“全員、帰ろう”って劇場から出てっちゃったこともありますよ(笑)。働く人の権利を守るのは当然だけど、ビジネスだけでなく芸術的観点から(そんなやり方だと)僕は責任持てないから。そういうような問題もすべてひっくるめた上で、現場ってのは成り立ってるから。そういうことも含めて一つの公演ってのはあるわけで…。(本紙を指差し)「ビジネスニュース」だから、こういう話も必要でしょ。(笑)

蜷川幸雄

ありがとうございます(笑)。それにしても海外で演出をされ続けてきた蜷川さんでも初日は緊張されるわけですね。

蜷川 われわれの作品、特に今回のような創作劇というのは(過去の)評価が定まってるわけではないし、その時、見る方の評価がすべてになっちゃいますから。日本の「宮本武蔵」っていう時代劇が、ちゃんと普遍性を持って観客に通じるか、受け入れられるか。やはり不安もありますね。

それでも日本、ロンドンでは評論家からも大絶賛でした。

蜷川 でもね、ニューヨークは、ブロードウェイをはじめ、オフ、オフオフ(ブロードウェイ)、と演劇がとっても盛んな街ですから。ここで認められるかどうか、喜んでもらえるかどうかっていうのは特別な気がしますね。

世界中で舞台を演出されてきましたが、やりやすかった国ってありますか。

蜷川 やりやすかった国なんてないよ!(笑)。いつもいつも初日が終わるまでは緊張しっぱなしですね。受け入れられたのかどうか、初日でお客さんの空気とか表情、拍手ですべてが分かっちゃいますから。

蜷川幸雄

先ほど、藤原さん、勝地さんにインタビューした際、蜷川さんの印象を聞いたんですね。なんとか「怖いです」ってセリフを聞き出そうとしたんですが。(笑)

蜷川 モノを投げるとか。(笑)

僕たちにはそういうイメージがあったんですけども(笑)。お2人とも、とにかく蜷川さんに100パーセント身を任せてついていけば安心だから、と絶対的な信頼を寄せている感じだったんですね。逆に蜷川さんからお2人の印象を聞かせていただけますか。

蜷川 そうですね。藤原君の方は、もう15歳でデビューした時から僕は一緒に仕事をしていて、お互い熟知してるし、う~ん、とにかくものすごくストイックないい役者だと思いますよ。主役をやって十分、世界に通用する俳優に育ったと思いますね。それから勝地君は、まだ若くてこれからどんどん成長していく俳優だと思います。何年か前に、彼がまだ10代の高校生の時に一緒に仕事をして、才能あるいい役者だなぁって、その時思って。だから今回、(佐々木)小次郎を決めなきゃいけないってなった時、もう、すぐに勝地君にやってもらおうって思ったくらい。今のほかの若い役者と比べて、ちょっと違うシャープなものを持っていますね。

今回は、井上ひさしさんの遺作ということで、それは蜷川さんにとっても大きなことではないでしょうか。

蜷川幸雄

蜷川 そうですね。井上さんは75(歳)で、僕も10月で75(歳)になるわけですから、同じ世代なんですね。井上さんはブロードウェイで「ムサシ」をやりたくて、何十年も前から企画をたてて、それが流れたこともあって。だから今回はニューヨークで公演できるという事をすごく喜んでらして、ここにも実際、来ると言ってたんですね。それが急にお亡くなりになったんで、その分も含めて、一生懸命やろうと。あんなに才能のある同世代の作家が亡くなるっていうのは、本当にショックだったんですけど、その分も含めてしっかりやりたいなって思うんですけどね。

最後に、ニューヨークのこの街の印象をお聞きしたいのですが。

蜷川 ニューヨークってねぇ、明るくて大好きなんですよ、僕。ロンドンで仕事をやることが多いんですけど、ロンドンってどっちかっていうと灰色の、閉ざされた街のイメージが僕にはあって。でも、この街はいろんな人たちがいて、とても伸びやかに、自由に明るい街っていう印象があるんです。もちろんいろんな矛盾を抱えている側面もあると思いますけど、僕には開放感があって、ここで仕事ができる楽しさっていうのは確実にありますね。

来られたら、必ず行く場所とかありますか。

蜷川 セントラルパークはよくぶらぶらしてますよ。美術館もたくさんあるからねぇ。一人でぶらぶらして楽しんでます(笑)。

 

◎インタビューを終えて
世界各国で絶賛されている巨匠でありながらも、いまだに幕が開く初日は緊張するという蜷川さん。勝手に思い描いていたハードボイルドなイメージとはほど遠く、熱心に一つ一つの質問に答える優しい姿が印象的でした。千秋楽の カーテンコール、観客のスタンディングオベーションを受けた蜷川さんの胸にはしっかりと故・井上ひさしさんの遺影が抱かれていました。ニューヨーク公演を誰よりも楽しみにしていたという戦友もニューヨーカーからの惜しみない拍手を喜ばれていたことでしょう。

 

蜷川幸雄(にながわ ゆきお)職業:演出家
 1972年演劇集団「櫻社」結成、74年同劇団を解散後、「ロミオとジュリエット」で大劇場演出を手掛けるようになった。以来、名実共に演劇界の第一人者として活動し続け、近年も、98年から始まったシェークスピアの全作品上演計画、上演時間が10時間半という昨年の「グリークス」の公演など話題に事欠かない。また、83年の「王女メディア」ギリシャ・ローマ公演を皮切りに、毎年海外遠征を行い、欧州をはじめ米国、カナダなどで高い評価を得ている。ことに近年では、96年「夏の夜の夢」、97年「身毒丸」、98年「ハムレット」と、連続したロンドンでの公演が話題を呼び、さらに99年から2000年にかけてはロンドンとストラッドフォードで、ロイヤルシェークスピアカンパニーとともに、「リア王」を長期上演した。88年「近松心中物語」の第38回芸術選奨文部大臣賞をはじめ受賞歴多数。92年には、英国エジンバラ大学名誉博士号を授与された。また、84年に始めた「蜷川スタジオ(ニナガワカンパニー)」では、若手の演劇人たちとともに、積極的に実験的な演劇作品を生み出し続けている。2006年彩の国さいたま芸術劇場で55歳以上の演劇集団「さいたまゴールドシアター」創設。

 

〈インタビュアー〉
高橋克明(たかはし・よしあき)
専門学校講師の職を捨て、27歳単身あてもなくニューヨークへ。ビザとパスポートの違いも分からず、幼少期の「NYでジャーナリスト」の夢だけを胸に渡米。現在はニューヨークをベースに発刊する週刊邦字紙「NEW YORK ビズ」発行人兼インタビュアーとして、過去ハリウッドスター、スポーツ選手、俳優、アイドル、政治家など、400人を超える著名人にインタビュー。人気インタビューコーナー「ガチ!」(nybiz.nyc/gachi)担当。日本最大のメルマガポータルサイト「まぐまぐ!」で「NEW YORK摩天楼便り」絶賛連載中。

 

(2010年7月24日号掲載)

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