倫理研究所理事長・丸山敏秋「風のゆくえ」 第106回
豊かな海に囲まれていた日本では、太古の昔から捕鯨が行われてきた。江戸時代には、大規模な集団による組織的な捕鯨が行われていたという。
たしか中学生の頃、教科書に平頭銛(へいとうもり)の話が出ていた。捕鯨に使う銛は先端が尖っていたので、水面下にいる鯨に打ち込むと、水面で跳ね上がって命中しない。そこで平田森三という優秀な物理学者が、銛の先端を切り落として平らにするという技術革新を行った話である。
国際的な動物愛護団体から捕鯨が手厳しく非難される昨今では、平頭銛の話が教科書に載ることはない。商業捕鯨が禁止になってからは、食卓に鯨肉が出ることはほとんどなくなった。鯨ベーコンや竜田揚げを美味しいと思う者としては寂しい。
ひとくちにクジラと言っても、その種類は80種余りもあって、シロナガスクジラのように絶滅の危機に瀕している種類もあれば、ミンククジラのように資源量がきわめて豊富な種類もいるのだ。鯨はノーなのに、牛豚を食べてもお咎めなしというのは釈然としない。
ところで「目くじらを立てる」という言い方がある。もともとは「目に角(かど)を立てる」「目を三角にする」と同じく、怒ったときの表情のことで、いつしか相手のアラ探しをしたり、欠点を責めたりするときに多用されるようになった。その「くじら」とは海にいる鯨のことだと筆者は思い込んでいた。
怒ると眉がつり上がる。太い眉ならば鯨が立ったように見えるからだろうと、勝手に納得していた。しかし「目くじら」とは目尻のことで、クジラとは何の関係もないと知った。目尻だから眉のことでもない。ある和英辞書に「目くじらを立てる」をraise one’s eyebrowsとしているが、それは正しくない、そうした些細なことを咎めるのを「目くじらを立てる」と言うのである。
話を目から耳に移そう。それほど若くはない世代の人でも、「耳ザワリのよいメロディー」という言いかたをする。「あの人の声は耳ザワリがよい」とも言う。本来なら「耳障り」であるから「よい」はずはない。日本語は正しく使えと、文句の一つも言いたくなる。
しかし「よい」とする人たちは、耳ザワリの動詞「サワル」を「障る」ではなく「触る」の意味で使っている。手ザワリ、歯ザワリ、肌ザワリと同様にとらえているのである。その意味で使う頻度が高まると、「耳障り」の影が薄くなる。「支障」を意味するサワルは、「サシサワル」などと言い換えなくてはならなくなった。
「耳ザワリがよい」は、本来の日本語としては間違いであっても、だれかが「耳触り」の意味で使い、周囲がそう理解して皆が使うようになると、もはや誤用とは言えなくなる。言語とは生き物であるから、そのように変異することもあるのだ。
しかし「目ザワリ」とは言っても、「目ザワリのよい景色」とは言わない。耳と目とはどう違うのだ。やはり「耳触り」はおかしいではないか。──そう目くじらを立てたくなるのは、やはり古い人間だからだろうか。
(次回は2月第2週号掲載)
〈プロフィル〉 丸山敏秋(まるやま・としあき) 1953年、東京都に生まれる。筑波大学大学院哲学思想研究科修了(文学博士)。社団法人倫理研究所理事長。著書に『「いのち」とつながる喜び』(講談社)、『ともに生きる』(倫理研究所)など多数。