倫理研究所理事長・丸山敏秋「風のゆくえ」 第107回
筆者のオフィスがある東京都千代田区紀尾井町のすぐ近くに「紀国(きのくに)坂」がある。昔その界隈を夜分に通りかかった商人が、暗がりで泣いている女性に声をかけた。振り返ったその顔には、なんと目も鼻も口もない。たまげて一目散に坂を上り、蕎麦屋の屋台に飛びこむと、今見た女のことを息せき切って話した。蕎麦屋が「そりゃこんな顔ですかい」と振り返ると、まるで卵のようにのっぺらぼうだった。
ご存じ小泉八雲の怪談「狢(むじな)」のあらましである。のっぺらぼうの顔は、想像するだけで気味が悪い。そんな顔の帝王が、中国古典の『荘子』に出ている。
──南海の帝王を儵(しゅく)といい、北海の帝王を忽(こつ)といい、中央の帝王を渾沌(こんとん、混沌)といった。儵と忽がときどき渾沌の土地で出会うと、いつも手厚くもてなしてくれる。二人はその恩に報いようと相談し、「人間にはだれにも(目と耳と鼻と口の)七つの穴があって、それで見たり聞いたり食べたり息をしたりしているけれども、渾沌にはそれがない。お礼に穴をあけてあげよう」ということになった。そして1日に一つずつ穴をあけていったところ、7日目に渾沌は死んでしまった──
人は感覚器官から得た情報によって、感情がわいたり、あれこれ考えたりする。目も耳も鼻もない渾沌は、外部の情報に惑わされることなく、矛盾も対立も超えた実在世界そのもののを、あるがままに生きている。老荘思想(無為自然の思想)において、渾沌は理想的な生き方のモデルなのだ。
しかし一般に渾沌とは、「すべてが入り交じって何が何だか区別がつかない様子」を指している。混乱や無秩序と意味が近いギリシア語に由来する「カオス」の翻訳語として使われてきた。今日の世界は、まさにコントンとしたカオス状態にある。この先何が起こるか、皆目わからない。ゆえに未来のビジョンが描けず、不安がつのる。どう生きたらいいのだろう?
古典の叡智に学ぶのであれば、一度、本物の渾沌に立ち返ってみてはどうか。のべつまくなく感覚器官を働かせた外向きの姿勢を改め、自己の内面を見つめる。さらには見つめることも忘れて、自分があるがままの自分と一つになる時間を、1日の中に確保するのである。
空っぽになった虚しい心にこそ、叡智がきらめく。日本人ノーベル賞第1号の湯川秀樹博士が、老荘思想に親しんだことはよく知られている。「渾沌というのは素粒子を受け入れる時間・空間のようなものといえる」と博士は言い、「場の理論」を構築したのだった。
ヒマがあるからと、スマホばかり見つめるのをやめ、静座や禅や瞑想を日課にして、豊かなひとときを楽しんではどうか。
筆者の場合は、出張以外の日はできるかぎり早朝に大きな公園を歩いている。時速6キロの早足で、慣れたコースをズンズン歩くと、意識が変性状態になり、自己を忘れることがある。名づけてウオーキング禅。すると、思いがけない閃きが得られたりする。おのずと、生きる力も湧いてくる。そのような愉しみを共有できる同士を、もっと増やしたいと思う。
(次回は3月第2週号掲載)
〈プロフィル〉 丸山敏秋(まるやま・としあき) 1953年、東京都に生まれる。筑波大学大学院哲学思想研究科修了(文学博士)。社団法人倫理研究所理事長。著書に『「いのち」とつながる喜び』(講談社)、『ともに生きる』(倫理研究所)など多数。