倫理研究所理事長・丸山敏秋「風のゆくえ」 第124回
ワクチンのスピード接種により、アメリカではニューヨーク州もカリフォルニア州もコロナ規制はほぼ全廃と報じられた。しかし油断は禁物である。毎年のインフルエンザがそうであるように、ワクチンが効かない人もいるし、ウイルスはどんどん変異するので、またもや感染がぶり返す可能性は消せない。
今世紀に入って開発された抗生物質やワクチンが絶大な威力を発揮して、結核は影を潜め、天然痘に対しては1980年に撲滅宣言が出た。ところが抗生物質に耐える病原菌が生まれたり、エイズやエボラのような新しいウイルス感染症が発現したりと、人類はいまだに病気から逃れられない。
ところでコロナパンデミックは、理不尽な世の中の様相を、いくつも炙り出してくれた。たとえば日本の場合、昨年2月末に安倍前首相が「全国一斉休校」の要請を出したとき、政権に批判的な有識者たちは、口々に非難の声を浴びせた。ところがやがてその同じ人たちが、「飲食店の時短営業は当然だ」だの「緊急事態宣言を出すのが遅すぎた」だのと非難する始末である。
今でも日本の感染者や死亡者の数は欧米よりもずっと少ないのだが、政府や自治体は自粛要請という同じ対応の繰り返しで、国民はすっかり嫌気がさしてしまった。素朴な疑問として「人の動きを止めたいなら、どうして公共交通や車の使用を止めないの?」と思うのだが、憲法に「緊急事態条項」がないからそれは無理だとか。
たしかに先進国で戒厳令を出せないのは日本だけらしい。ならばどうして野党は憲法改正を訴えないのか。政府や自治体が飲食店に厳しく酒類の禁止や時間制限を触れ回っていたのは、憲法違反だと批判しないのはなぜなのか。政府を批判的に補う立場の野党なのだから、「自粛ばかりしないで経済をまわせ」と言うべきであろうに、「目指すはゼロコロナ」(立憲民主党)とは呆れてしまう。
「不要不急の外出は控えよ」という決まり文句も、相変わらず聞こえてくる。いったい何が「不要不急」なのか。地域の自治会やボランティア活動で活躍していた人たちが、めっきり減ってしまったという。ああした活動は「どうしても必要というわけでもなく、急いでする必要もないこと」だったのだろうか。
よく考えれば「不要不急」こそが、人類の社会や文化を作り出してきたのではなかったか。英語のスクール(学校)は、遊びや余暇を意味するギリシア語の「スコーレ」に由来する。昔のギリシアの広場では、暇な者たちがやってきて議論したり、芸術を披露していた。仕事帰りに親しい仲間が、行きつけの居酒屋で盃を傾けながら談論すれば、愚痴も悪口もこぼれよう。しかし気分はリフレッシュして、意外な仕事のアイディアが湧くこともある。
何が自分にとって「要」であり「急」なのかを自ら判断する基準こそが、その人の価値観や生き筋である。政府の要請に反発ばかりするのも困るが、「みんながそうしているから」と判断を他人任せにしてしまう日本人の情けない体質も、改めて露呈してしまったコロナ禍の1年半である。
(次回は8月第2週号掲載)
〈プロフィル〉 丸山敏秋(まるやま・としあき) 1953年、東京都に生まれる。筑波大学大学院哲学思想研究科修了(文学博士)。一般社団法人倫理研究所理事長。著書に『「いのち」とつながる喜び』(講談社)ほか多数。最新刊『経営力を磨く』(倫理研究所刊)。