〈コラム〉「平等主義」という虚構

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倫理研究所理事​長・丸山敏秋「風のゆくえ」 第153回

今年はどんな年になるだろう、と年頭に思う。しかし、予想通りにはならないものだ、と年末になって振り返るものだ。

この先何が起こるか、予知できる人はいない。予想すら難しい。具体的な出来事はともかく、大きな方向性をある程度は予想しなければ、何事にも力が入らない。

筆者は、民主主義(democracy)が依って立つ平等主義という虚構がいよいよ露呈する年になるのではないか、と予想している。現代社会で民主主義は金科玉条のごとく尊ばれてきたが、はたしてどうなのか。事実上は独裁政権でありながら、民主主義を強調する国があるのには恐れ入る。

アメリカ合衆国憲法の政治制度が、民主主義であるのは言うまでもない。それは建国の際に、「歴史を持たない国」であるアメリカが新しく考え出した理論だった。デモクラシーは古代ギリシアのアテナイ市民の「デーモクラティア(demokratia)」に由来する。ギリシア語の「デーモクラティア」は、アテナイの町内会を意味する「デーモス(demos)」と、「力」を意味する「クラトス(kratos)」の合成語で、いわば「町内会政台」だった。その総会には、住民全員の出席が必要とされ、投票権のある者は投票しても棄権してもいいというアメリカの民主主義とはまったく違っている。

民主主義は理想的な制度であるどころか、欠陥だらけの制度であると改めて認識したい。いちばんの問題は、この考え方が「人間はすべて神のまえに平等につくられている」という虚構を前提としていることだろう。

なぜ虚構かといえば、現実を見れば直ちにわかる。人間は生まれながらにしていかに不平等であることか。肉体的特徴、個性、才能、醸し出す雰囲気…。「氏か育ちか」が論議されるのは、人によるそうした違い、すなわち不平等を前提としている。

それなのに民主主義の制度は、人間だれもが自由な意志で決断する能力を持っていることを前提にしている。しかしそうだろうか。自分の判断や行動や生き方を、自立的に決めている人がどれほどいるだろう。大多数の人は、習慣や慣習や、周囲の状況に押し流されているではないか。

フランス革命のあとの西ヨーロッパでも、虚構の平等主義を前提に、国民国家がつくられてきた。国民がそれぞれ平等な立場で国家を所有し、国家に参加しているというのだが、空虚なたてまえにすぎない。

たとえば民主主義の典型とされる選挙制度にしても、政治に対する理解も意欲も異なるすべての国民に、等しく選挙権を与えていいのか。「清き一票」をめぐる不正は止むことを知らないではないか。

今年は秋にアメリカの大統領選挙が行われる。そこでおそらく、民主主義の根底にある平等主義が問い直される事態が起こるのではなかろうか。それが今後の健全な改善に向かう契機になるのであれば、歓迎したいと思うのだが…。

なお、平等主義という虚構は医療の世界にもあてはまるのだが、それはまた別の機会に述べたい。

(次回は1月13日号掲載)

〈プロフィル〉 丸山敏秋(まるやま・としあき) 1953年、東京都に生まれる。筑波大学大学院哲学思想研究科修了(文学博士)。一般社団法人倫理研究所理事長。著書に『「いのち」とつながる喜び』(講談社)『至心に生きる 丸山敏雄をめぐる人たち』(倫理研究所刊)ほか多数。

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