倫理研究所理事長・丸山敏秋「風のゆくえ」 第88回
去る6月5日に群馬県伊香保温泉の老舗旅館で火災が発生し、筆者はたまたま泊まり客としてその場に居合わせた。少人数の会合が終わり、ひと風呂浴びて、夕食後のほろ酔い気分で早めに床に就こうとした午後9時頃のことである。突然に火災報知器が、けたたましい音で鳴り始めた。
「なんだなんだ、報知器の誤作動じゃないのか…」。機械の音を聞いても、火災発生とは誰も思わない。廊下に出ると、煙が廻ってくる気配もなく、従業員も首をかしげている。ややしばらくして、「火災が発生しました。皆さん、そのまますみやかに外に出てください」と肉声の放送があり、本当なのだと驚いた。
火元になったのは横に長い3階建ての宿の端で、窓から炎と煙が噴きだしている。幸い平日なので、宿泊客は20人ほどだったか。旅館は高台にあり、路は狭いので、消防車は近くまで上がれない。下から何本もホースをつなぎ、ようやく消火活動が始まった。
大火ではないので、避難したわれわれは他人事のように見守っていたが、旅館の若い女子従業員には、テキパキと動いてこまめに気配りしている者もいれば、パニック状態になって泣くばかりの者もいる。屈強な若い消防士たちは、それぞれの任務を元気よくこなしていて、頼もしかった。
結局、着の身着のままで外に出た宿泊客は、財布もスマホも着替えも何も持たないまま、受け入れてくれた別の旅館に移され、一夜を過ごすはめとなった。このような非常時に遭遇するのは、宝くじに当たるよりも確率は低いかもしれない。夜中に何度も目覚めながら、いろいろ考えさせられた。
2010年に逝去した高名な免疫学者で文筆家の多田富雄氏は、脳梗塞で倒れ、療養していたマンションで火災に遭った。煙に巻かれながら消防士に背負われて避難した場面をこう書いている──「やっとのことで分厚い消防服の背中にしがみついた。片手しか使えないので、ずり落ちそうになるのを必死に我慢して階段を駆け下りた。幅広い屈強な青年の背中だった…」。
この一文を思い出しながら、人口が急減していく日本の近い将来に、大きな不安を覚えた。危険をかえりみずに火災を消し止め、避難者を助けながら的確に誘導するのは、若い消防士でなくてはできない。さまざまな災害で活躍する自衛隊にしても、遭難者を救うレスキュー隊にしても、若者でなければ務まらない仕事はいくつもある。
確実に若者が減り、高齢者が増えていく社会で、どうしたら国民の安全を保てるのだろう。その対策に、国も行政も真剣に取り組んでいるのだろうか。まことに心許ない。現在の65歳以上の高齢者の数は約3515万人で、総人口に占める高齢者の割合は27・7%と、ほぼ4人に一人が高齢者である。2042年にはその数が約4千万人とピークを迎える。
今年から高齢者の仲間入りをする自分としても、将来を憂えるだけでなく、今から足腰を鍛えて、若者たちの負担を少しでも軽くすべく努力しなければならない。自助努力を忘れてはならないのである。
(次回は8月第2週号掲載)
〈プロフィル〉 丸山敏秋(まるやま・としあき) 1953年、東京都に生まれる。筑波大学大学院哲学思想研究科修了(文学博士)。社団法人倫理研究所理事長。著書に『「いのち」とつながる喜び』(講談社)、『「いのち」の輝き』(新世書房)など多数。