〈コラム〉誤解をなくす努力を

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丸山敏秋「風のゆくえ」 第36回

人間関係に誤解はつきものである。ちょっとした誤解で、友情や信頼が壊れてしまったりする。夫婦でも「誤解して結婚、理解して離婚」というケースが少なくない。
諸外国との間では、文化の違いによる誤解がしばしば生じる。つい先日、アメリカには靖国神社に戦没者が「埋葬されている」と信じている人たちがいる、と聞いて驚いた。この神社を紹介した英文に、そう書かれていたからだという。アメリカ人の執筆者は「祭られている」という日本語の意味が理解できずに、「埋葬されている」と訳してしまったらしい。アーリントン国立墓地のような戦没者のための墓苑を思い浮かべたのだろうか。
なんという見当違いかと、日本人なら怒りたくなる。しかし日本人でも、神道の祭りを正しく理解しているのかどうか、はなはだ心許ない。江戸時代の中期に国学を大成した本居宣長は、祭るとは「たてまつる(奉る)」ことだと解釈した。神社に坐(ま)します神々をひたすら敬仰し、神様が喜ばれるであろう物(たとえば旬の食べ物や絹織物)を献納したり、お神楽を奉納するのが祭りの本義である。
神社を清浄に保つことも、祭りには欠かせない。参拝者は手水を使ったり、お祓いを受けて、日常のケガレを除き去ってから神様と向き合う。それだけでも参拝の意味がある。拝むときには、個人的な願い事を先立てるのでなく、まず真心を込めて平素のご加護に感謝する。
日本では古来、「人は死すれば神になる」と信じられてきた。とくに偉大な人を、死後には神様として崇拝し、神社を建てて祭ったりする。菅原道真や平清盛のように、死後の祟りを怖れて祭る場合もある。神道では死がいちばんのケガレなのに、どうして死者が神になるのか、外国人はほとんど理解できないだろう。靖国神社には約247万柱もの英霊が祭神として祭られている。そこには戦犯が「合祀」されているではないかと批判する声も、そうした理解困難から生じている。
日本固有の神道ではこう考えられてきた。――どんな人も死んでから一定の時を経ると、肉体を脱ぎ捨てた御霊(みたま)はおのずと浄められていく。合祀の儀式を施すことでも、御霊は浄められる。清浄な御霊を祭ることで、その加護の力を人々は得ることができる――
このような考え(信仰)が果たして理解できるかどうか、今の日本人でも怪しい。しかし理解を超えたところで、多くの日本人は共感しているだろう。文化とは、そういうものなのだ。文化は共同体における生き方であり、人々によって生きられたものである。そしてそれは今もなお、生きられるものでなくてはならない。昨年は伊勢神宮のご遷宮がクライマックスを迎えたことから、1400万人を超える年間の参拝者があった。これは薄れかけている伝統文化への回帰現象なのであろう。
たとえ理解が難しくとも、国際社会においてはお互いに自国の文化の特色を正しく発信し、理解を深め合う努力をつづけていかなくてはならない。まずは誤解の解消から始めていこうではないか。
(次回は4月第2週号掲載)
maruyama 〈プロフィル〉 丸山敏秋(まるやま・としあき) 1953年、東京都に生まれる。筑波大学大学院哲学思想研究科修了(文学博士)。社団法人倫理研究所理事長。著書に『「いのち」とつながる喜び』(講談社)、『今日もきっといいことがある』(新世書房)など多数。

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