マクロビオティック・レストラン(23)
九月X日
午後から東ベルリンに行く。持っていた東ドイツの金七十マルクを使うのがその目的。検問のチャーリー・ポイントで『ニューズ・ウイーク』を戻ってくるまで預かっておくと取り上げられた。レコードを一枚、まず買う。十五・一マルクは高い。夜バレエを見る。十五マルクといちばん高い席を張りこんだ。西ベルリンの劇場とくらべれば観客もずっと質素。何をやるのか知らずに入ったが学生時代に演奏したことのある『剣の舞』を見られたのはさいわい。まだ金は余るのでホテルにでも泊まろうと考えたが、パスポートを見て、「二十四時間滞在なので宿泊できない」と言われた。金はあるのに泊まれない。不思議な気持ちである。駅のレストランが待合室を兼ねて、一晩じゅう開いているというのでそこで寝る。(西ベルリンから東ベルリンに行くのに強制的に換えさせられる金額は一日五マルク、そのときの西と東のレートは一対一、ところが実際のレートは西側の銀行では西側一マルクに対して東側三マルクだから、旅の最後にちょっと贅沢してやろうと、ウィーンの銀行ですこしよぶんに東ドイツ・マルクに換えていた。)
九月X日
残りの金で皮手袋を買う。三十三・一マルク。不足分は西ドイツ・マルクで払う。昼前フリードリッヒストラッセから出る。レコードや皮手袋を持っていたので内心びくびくだった。しかし、よく考えてみると、入国するとき西ドイツ・マルクを自分の手持ちよりよけいに報告しておけば、闇の東ドイツ・マルクを使っても西ドイツ・マルクで買い物したと言い逃れることができる。Sバーンでスタッケンまで行き、国道沿いに一・五キロ歩いてチェック・ポイントに出る。車がすくなくヒッチは困難かと思われたが、さいわい三、四十分でベルリン自由大学の学生に拾われた。ベルリンはこれで二度目、前回もベルリンとのあいだをヒッチで往復した。西側とベルリンのあいだは島に架けた橋を渡って行くようなものだから途中下車できないかわりに乗ればもう一直線。ベルリンは好きな街のひとつ。イギリスやアイルランドを除けば、ヨーロッパで英語がいちばん通じる街だろう。六時ころ国境を超え、西ドイツのローエンブルグという街に着く。ここからさらにヒッチを試みたが、日も暮れ、掴まりそうもないのでユースに泊まる。こんな片田舎のユースでも日本人がふたり働いていたからびっくりした。
十月X日
今日はオズナブルックまで行こうと思ってアウトバーンに立ったが二時間待って収穫ゼロ。日曜日のせいか車もすくなく家族連れかアベックばかり。(アウトバーンでのヒッチハイクは禁止されていることを知らなかった。)仕方なく列車で行こうと思ったら、アムステルダムまで三十八マルクと聞いてびっくり。再び気を取り直して別のところからヒッチを試み、十分で掴まえたのはよかったが、ブッサムという四十キロ離れた小さな街で下ろされ身動きできなくなった。結局、列車でブレーメンまで引き返してもとのユースに泊まる。「禍福は糾える縄の如し」とはよく言ったものだ。一日無駄にして、しょげていたところへ、車で旅行していたスペイン人の三人兄妹と知り合い、明日アムステルダムまで乗せて行ってやると言われたからだ。スペイン語がまた役立った。彼らの言葉でしゃべるのが、うれしかったのだろう。 (次回は4月13日号掲載)
〈プロフィル〉山口 政昭(やまぐち まさあき) 長崎大学経済学部卒業。「そうえん」オーナー。作家。著書に「時の歩みに錘をつけて」「アメリカの空」など。1971年に渡米。バスボーイ、皿洗いなどをしながら世界80カ国を放浪。