〈コラム〉ならぬものはならぬ 

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倫理研究所理事​長・丸山敏秋「風のゆくえ」 第51回

人間と他の動物との決定的な違いは、二足直立歩行だけではない。人はアゴが発達してクビが細い。そのためクビを絞められると簡単に窒息死してしまうけれども、クビが細くなって声帯が発達し、豊かな言語能力を得た。

言語能力は脳の発達をうながし、学問や芸術を生んだ。そして子々孫々に文化を伝え、また新たに創造していく。本能に支配される動物に、それは不可能である。さらにもう一つ、他の動物との決定的な違いがあるのだが、それは何か?

体の表面が違う。人間に近いゴリラのような類人猿ですら濃い毛に覆われているのに、人の体毛は退化して、肌の大部分が露出している。動物行動学者のデズモンド・モリスは人間を「裸のサル」と呼んだ。では、体毛の退化は何を生んだのか?

それは「性」の自覚と差恥の感覚である。『旧約聖書』創世記のアダムとイブの「楽園追放」の話が思い出される。イヌにもゾウにも、羞恥心があるようには見えない。男女両性の自覚は自他の人間関係を意識させ、愛という心情も紡ぎ出した。さらには「性」の欲望をコントロールするためのモラルも生んだ。羞恥心こそ、モラルの源泉である。

ただし体に対する羞恥心は文化圏によって異なる。明治以前の日本人の場合、公衆の面前で裸体をさらすのを恥ずかしいとは感じなかった。若い娘が人目も気にせず行水している姿を目撃した欧米人はたいそう驚き、「日本人はモラルのレベルが非常に高いけれども、羞恥心の欠如ぶりは野蛮きわまりない」などと書いている。他方、「異性の裸体を見て欲情をそそられる方がずっと不謹慎だ」と、日本人を擁護してくれた欧米人もいた。

昔の日本人の羞恥心は、裸体を見られるよりも、他人から笑われるときに感じる方がずっと強かった。「世間から笑われない人間に育つ」ことがしつけの目標とされた。「みっともないことはするな」とは今でもよく言う。大教養人だった作家の幸田露伴は、愛娘にあえて嘲笑するような叱正の言葉を投げかけ、厳しくしつけたという。

そうした教育は、羞恥心がモラルの源泉であることをよく示している。「世間」という共同体の秩序を維持するために、一定のモラルは不可欠だ。しかし近代化が広がるにつれて日本のモラルは変質する。とくに戦後は「価値観の多様化」という美名のもとで、モラルの崩壊が起こってしまった。

平気で地べたに座り込んだり、歩きながら大口を開けてパンをかじったり、電車の中で平気で化粧するような振る舞いには、羞恥心のかけらもない。

他人から笑われないようにという行為の規範があった時代と、それが滅びかけて新たなモラルが築かれないままの現代と、どちらが健全な世の中だろうか。「人のふり見てわがふり直す」という訓言も死語に等しくなってしまった。やはりそれではいけない。「ならぬことはならぬ」と、勇気をもってはっきりと若者を諭せる大人が増えなければならない。「臆病者は決して道徳的にはなれない」というマハトマ・ガンジーの言葉を思い出す。

(次回は7月第2週号掲載)

丸山敏秋

〈プロフィル〉 丸山敏秋(まるやま・としあき) 1953年、東京都に生まれる。筑波大学大学院哲学思想研究科修了(文学博士)。社団法人倫理研究所理事長。著書に『「いのち」とつながる喜び』(講談社)、『「いのち」の輝き』(新世書房)など多数。

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