文化丸山敏秋「風のゆくえ」 第35回
第62回式年遷宮が行われた昨年、伊勢神宮には過去最高となる1420万人もの参拝者が押しかけたという。筆者も毎年一、二度は参拝し、内宮でお神楽を奉納する。檜づくりの立派な神楽殿に、6、7名の楽師たちが左右に分かれて着座し、雅楽が奏でられると、とたんに場内は厳かな雰囲気に包まれる。
雅楽の曲の始まりは、鞨鼓(かっこ)という打楽器の奏者が、撥(ばち)を手にするときが合図となる。あとはそれぞれの奏者が、互いに呼吸を合わせながら曲が流れていく。雅楽を含む邦楽には、このように指揮者(コンダクター)がいない。西洋生まれのオーケストラとは、本質的に異なる合奏法なのである。
日本の伝統武道である相撲は、もともと神に奉納する祭事だった。独特な装束に身を包んだ行司は、その祭事を主催し、勝負の判定をする役を兼ねているが、試合開始の号令をかけはしない。力士双方が相手との呼吸をはかり、気が合ったと感じた瞬間にぶつかる。気が合わなければ「待った」をかけてもよい。大相撲では仕切りの制限時間を設けているが、時間前に両者が立ち合うことは時にある。
相撲の醍醐味は、この立ち合いにあるのだ。立ち合いでしくじると、敗色が濃くなる。何度か仕切りながら、次第に双方の気が高まり、いよいよというその瞬間に、他者からの合図なくして勝負が始まる。相手と気を合わせながら、しかも有利な立ち合いをしようと、力士たちはその一瞬に精神も技能も集中させる。そこには「美」をすら見出せるであろう。
独特な短い詩である和歌や俳句の世界には、連歌や連句という形式がある。五七五の句の後に七七の句を、さらに五七五…と複数の人が交互に句を連ねていく。そのときに肝心なのが、一座の人々の気心が合うかどうかだ。合えばそこに、言葉の醸す「美」の流れが出現する。
芸術や武芸の世界だけでなく、日常でも日本人は他者と気を合わせるよう配慮してきた。「間合いをとる」と言ってもよい。一方の自己主張や自己顕示が強いと、「間」は現れない。必要なのは自己の抑制である。みずから一歩退き、「受けて立つ」構えを示すのだ。上手に演じようとしたり、勝ち負けにこだわると、この構えにならない。相互の関係はギクシャクし、滑らかさも美しさも消えてしまう。
そのような気を合わせる文化は、日本人の弱点にもなってきた。自己主張が強く、巧妙な駆け引きを得意とする文化を背景に持つ外国との交渉では、一方的にやり込められてしまう。これまでどれほど煮え湯を飲まされてきたことか。
だからといって、気を合わせる文化を無くしてしまってよいものではない。否むしろ、これからの時代にこそ、自己抑制に基づいた相手と気を合わせる文化が、必要とされているのではないか。
弱肉強食の原理で動いてきた近代は、すでに限界に達している。それとは異なる新しい原理を模索するとき、日本の伝統文化にぜひ注目してもらいたい。それこそが、真のクールジャパンだと思う。
(次回は3月第2週号掲載)
〈プロフィル〉 丸山敏秋(まるやま・としあき) 1953年、東京都に生まれる。筑波大学大学院哲学思想研究科修了(文学博士)。社団法人倫理研究所理事長。著書に『「いのち」とつながる喜び』(講談社)、『今日もきっといいことがある』(新世書房)など多数