丸山敏秋「風のゆくえ」 第34回
30代半ばで失業したある人が、知人の紹介で、それまでまったく経験のない食品製造の会社に入った。慣れない仕事が、そう簡単に身につくはずがない。
「何とかしなければ…」という思いから彼が決心したのは、朝一番に出勤することだった。始業の1時間前には、ロッカー室で着替えてしまう。手持ちぶたさなので、翌朝からは工場内のトイレや出入口、棚やベルトコンベアーの下など、片っ端からあちこちを掃除をした。
なんとも気分がいい。始業時には心身共に覚醒しているので、仕事も覚えが進む。その積極性がよい評価をまねき、早朝出勤をつづけて1年もすると、彼は早くも主任というポストを与えられた。
先んずれば人を制す。先手は勝利をつかむのである。
陰湿ないじめ事件が相次ぎ、荒んだ状態のある中学校に、校長として赴任した人がいた。なんとかわが校を立て直そうと、彼が意を決したのも早い出勤だった。
早起きをして朝食を済ませ、身支度をととのえる。電車は空いているので、読書には好都合。毎朝6時半には校長室へ入る。その日の業務を確認し、やれることはあらかた済ませてしまう。
生徒たちが登校してくる時間になると、校門の前で一人ひとりに「おはよう」と元気に声をかけた。最初は怪訝な顔をしていた生徒たちも、次第にあいさつを返すようになっていった。いつの間にか、早く出勤して、校長と一緒に校門に立つ教員が一人二人と出てくる。1年後、その中学ではいじめ事件が消え去り、活気がよみがえったという。
どちらも実話である。「早い出足」をここでは勧めているのだが、何でも早く早くと競争意識を煽ろうとしているわけではない。早さを競ったからといって、首尾よくいくとはかぎらない。早さを焦る気持ちが、思わぬ失敗を招くこともある。
肝心要は、心の姿勢である。
仕事でも稽古事でも、それが大切であればあるほど、出足を早くするのだ。
開始時間に息を切らせてギリギリ滑り込むのではなく、できるだけ早めに出向き、十分な余裕で事に臨む。それは、物事を尊重するという真心の表れにほかならない。
やってみればわかるだろう。きっと事がスムーズに運ぶようになる。好ましい状況が次々に展開していく。早い出発の心がけが、事情を自分に都合のよい方向に招き寄せるのだ。
会合や待ち合わせの場所にも、5分や10分、早めに着いておく。早すぎたとしても、遅れるよりはずっといい。待ち合わせ場所の周りを散歩でもしてみてはどうか。近くに公園でもあれば、気持ちよくひと休みできる。
原稿の締め切りを守ったり、期日を厳守する秘訣も、早めのとりかかりにある。書き終えてから十分に寝かせて見直すと、原稿の質はさらによくなる。
ちなみにこの原稿、書き終えて半月ほど寝かせてから投稿した。出来映えがまずければ、それは寝かせたからではない。筆者の能力の問題である。
(次回は2月第2週号掲載)
〈プロフィル〉 丸山敏秋(まるやま・としあき) 1953年、東京都に生まれる。筑波大学大学院哲学思想研究科修了(文学博士)。社団法人倫理研究所理事長。著書に『「いのち」とつながる喜び』(講談社)、『今日もきっといいことがある』(新世書房)など多数