長州力

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米国遠征で変えられた人生

「ガチ!」BOUT.119

かつて“革命戦士”の異名でプロレスブームの一時代を築き、80~90年代の新日本プロレス全盛期をけん引した男も昨年、還暦を迎えた。その波瀾万丈のレスラー生活がスタートしたのはデビュー間もない西ドイツへの海外修業から。その後、アメリカ、カナダ、メキシコ遠征を経て、不世出のプロレスラー、長州力は誕生した。盟友タイガー服部との出会い、UFCほか総合格闘技への思い、そし て自身のエンディングを語ってもらった。「ガチ!特別編─アメリカが青春だった頃─」 (聞き手・高橋克明)

 

今振り返る米国修業時代

ミュンヘン五輪出場から鳴り物入りで新日本プロレスからデビュー(74年8月)して、半年後に海外修業に出されたのは、やはりそれだけ会社から期待されていたわけですよね。

長州 いやぁ、そんなこともないですよ。

最初はドイツをサーキットで回られたということですが。

長州 そう。最初に入ったのがフランクフルトで、ヴィースバーデン、そこからミュンヘンかな。半年くらいかけて回りましたよ。

あまり良いイメージはなかったとか。(笑)

長州 なかったねえ(笑)。(当時の西)ドイツだったから、まぁ、季節も(関係)あったのかも分かんないけど、どこ行っても暗くて、寒くてね。息抜きするようなところもあったわけじゃないから。半年いるのはきつかったですね。

いったん海外修業に出ると、その自由さからもう日本には戻りたくないっていうレスラーの方も多いですよね。

長州 それはアメリカとかそういうところ(に行ったレスラーたち)ですよ。ドイツは(それ以前に)オリンピックでミュンヘンには行っているけれども、そもそもドイツ語ってのがまったく分からないからね。やっぱり言葉で少し困ったっていうか、英語しゃべる選手もいたけど、僕は英語も得意じゃなかったし。でも、不安っていうのではなかったですよ。不安は全くなかった。食べ物にも不自由しなかったし。ただ…暗かったね。(笑)

お話を聞いていると本当にあまり良い印象は持たれてないみたいですね。(笑)

長州 観光ではまた行ってみたいなーとは思いますよ(笑)。観光ではね。

当時の西ドイツのプロレスっていうのは、ヨーロッパ独特のそれで、日本のプロレスとはまた違ったスタイルですよね。

長州 キャッチ(レスリング)って言ってね。シンプルっていうかちょっとアマチュア(レスリング)に近い。だからそういう選手が多いですよね。僕もアマチュア終わってすぐだったからそんなに違和感なかったんだけど(その分、逆に)あまり学ぶようなものもなかったんじゃないかなと思うんですけどね。ルールさえ把握すればめちゃめちゃ単純にできちゃうというか。ただ、こっちはプロレス(を覚え)に行っているわけだから。

当時のヨーロッパの名レスラーだと、ローラン・ボックとか…。

長州 ローラン・ボックいましたねー。

スティーブ・ライトとか。

長州 いたねー、スティーブ・ライト。

彼らは日本でもオーバーした(人気が出た)選手ですね。

長州 彼らはもう、キャリア長かったしね。どっちにも対応できるスタイルを持って(日本に)来たから。彼らもドイツではヨーロッパのスタイルでやって。日本に来たらまた日本のスタイルで(やってた)。

そこから新日本に戻って、また半年後に今度はアメリカに修業に行かれました。

tampa

長州 そう。フロリダに行ったんですよね。1年ちょっといたんじゃないかな。そっからですよ(自分の中でキャリアが)本格的にスタートしたのは。

会社から「次はフロリダだ」って言われた時の気持ちは覚えていらっしゃいますか。

長州 もう40年近くも前の話だから(笑)。ただ気持ちも何も関係ないですよ。(会社に)行きなさいって言われたら行くしかないわけですから。(自分の中では)行っても行かなくてもどっちでもいいっていうような感じではいたよね。

実際に訪れたフロリダはいかがでしたか。

長州 タンパだから一番気候のいい、非常にいいとこですよ。

西ドイツと違って。(笑)

長州 うん(笑)。(住んでいたアパートを)出れば(目の前は)すぐ海だったし。当時は二、三十ドルあれば十分一日過ごせたんじゃないかな。そこで人生変わりましたよ(笑)。要するにね、こっちは高校、大学と体育部の寮生活ってのが体に染み付いてるんですよ。当時の専修大学ってのはめちゃくちゃ厳しくって、入学した後もほとんどの同級生が逃げだしていくくらい厳しかったんだから。たまに宴会やっても歌といえば軍歌ばっかり(笑)。みんな軍歌とか国歌とかしか歌わない。それがタンパに行って、なんていうのかな、違う人生に入っていったっていう、そんな感じがありましたよね。だって、あの(ロックバンドの)サンタナを見たのもタンパ・スタジアムだもん。すごかったよね。

(現在ニューヨーク在住のレフェリー、タイガー)服部さんも一緒に食事をさせていただくと、必ずタンパの話をされます。(笑)

長州 だって一番最初に正男(タイガー服部)と会ったのがタンパだったから。到着して1週間くらいしたら正男が訪ねてきたのかな、奥さんと。

服部さんも「タンパに光男(本名)と一緒にいたころが俺の青春時代だった」とよくおっしゃいます。酔うと必ず。(笑)

長州 酔うと同じ話ばっかでしょ、あれ。もう年なんだよ(笑)。でもね、正男はもう先輩とかそういうの超えてる、うん。なんていうかな、兄貴みたいな存在だよね。音楽から何から教えてもらったんだから。人生の師匠ですよ(笑)。正男に出会ってから(人生)変わったからね。タンパでは毎日、正男の家にいて、一日中、ピンク・フロイド聞いて…。たまにアメリカ人の家でパーティーがあると連れていってもらって。屋敷からすぐボートが出るような家のね。こっちはどんくさいカッコウだけど、みんなすごいフレンドリーでね。懐かしいですよ。確かにあいつとタンパにいたころが青春時代だったんじゃないかな。ずっとテイクケアしてもらってたから。出会ってなかったら全て投げ出してたかも分かんない。だって、むちゃくちゃしてたもん。だってね…。(※ここから先、掲載できないような話なので、自粛)

ダハハハ。書けないです。でも楽しそうです。(笑)

長州 仕事はそんなに多くなかったけど週に2、3回、デューク(東郷)さんがブックして(試合を組んで)くれて、ちっちゃいテレビ(収録)用の会場でやったり。あとはグリーンボーイだったからジャクソンビル(の試合会場)まで飛ばされたりしてね。

タンパからジャクソンビルまで車で行くんですか?

長州 そう。すっごく遠いんだよ。(レスラー)仲間で(交代して)運転してね。まぁ、でもそん時はみんな若かったからね。

タンパのリングはヨーロッパより肌に合っていたというか…。

長州 (さえぎって)いや、それでも抜けないですよ。アマレスのこの地味なスタイルってのが(体から)簡単には抜けないから。徐々に徐々に、グリーンボーイから覚えていきましたよね。それ(スタイルそのもの)よりも(業界自体を)あぁ、こういう世界なんだなぁって吸収していったっていうか。

タンパに1年ちょっといて、その後はモントリオールからニューヨークに移りましたよね。

長州 すでに正男がニューヨークに引っ越してたからね。そこを頼って、ニューヨークでは1カ月くらい居たのかな。仕事(プロレス)は相変わらずしょっぱい(上手ではない)し、うだつはあがらないけど、まぁアメリカンスタイルでやっていけて。

70年代のニューヨークはいかがでしたか。

長州 ニューヨークにはハマらなかったね。あそこはハマるタイプとハマらないタイプがいるよ。僕はもう、タンパの方が(笑)。ただ、マサ(斎藤)さんと出会ったのはすごい思い出だけどね。そのころ(マサさんはすでに)マディソン(スクエア・ガーデン)で稼いでたからね。プエルトリコ行く前に1回、マサさんと一緒にサーキット回ったことあんのよ。シカゴからミネアポリスにかけてかな。その時に…。(※ここから先、掲載できるはずのない話なので、自粛)

ダハハハハ、それも書けないです。そんな全米各地に強烈な思い出がある中でも、それでも一難印象に残っているのはタンパなわけですね。

長州 ただ、タンパもずいぶん(今は)変わったって聞いているけど、でも行ってみたいなって思いますよ、うん。しょっちゅう思うね。(当時)住んでたアパートがまだあるっていうから、そこ、なーんか行ってみたいね。ぜひ、行ってみたい。多分行くと思うよね、いつか。当時はもう(日本に)帰んなくていい、ずっといようって思ってた場所だから。

当時、そのままアメリカに残っていたらまた違った人生だったかもしれないですね。

長州 あー、でもそれは本人でも誰も分からない。答えなんてないですよ。今となっては帰ってきて正解だったと思うし、残ってりゃ皿洗いか、下手したらホームレスやってるかも分かんないし、死んでるかもしれないしね。(笑)

そこからメキシコ遠征を経て、82年、新日本プロレスに戻り「かませ犬発言」につながっていくわけですが、今振り返ってご自身のレスラー人生において、海外修業時代は大きな転換期と言えますか。

長州 時代時代の背景ってあるから、今(の若手)は海外遠征なんてないですから。だからそれが全て(いい)とは言えないけど、一つの思い出としては、いろんなものを吸収させてくれたよね。でも、あとは自分の音楽の趣味を変えてくれたってことぐらいかなぁ。なんかっていうと軍歌しか歌えなかったんだから。(笑)

それから30年。今年はデビューして38周年を迎えられますが、今回お聞きしたかった質問の一つに長州力というレスラーのエンディングについて…。

長州 (さえぎって)僕はいったんリタイアしてるからね。(98年、東京ドームで1回目の引退試合)1回やめているんで、もう区切りは打ったつもりでいるから。今はちょっと呼ばれて(リングに)上げれればいいっていう。仲間内でやれればいいなって。体動かすのは好きだから。ただ、上がる限りは年取ったな、っていうふうに思われたくないから。今でも(トレーニングは)やるけどね。

「巌流島マッチ」のポスター

「巌流島マッチ」のポスター

ただ、昨年旗揚げした「LEGEND THE PRO-WRESTLING」(※藤波辰爾、初代タイガーマスクらと結成)の会場は異常なまでの盛り上がりを見せています。求心力、という意味ではまだまだ他のレスラーより圧倒的な存在感だと思うのですが…。

長州 当時(80~90年代)のスピードは、それはもう全然(今はない)。ただ雰囲気というか自分でやってる部分では、まぁ信じてやってきたことは若い時も今も変わらないから。プロである限りは、明日もサイパンに行くけど、自分の(体の)コンディションはね、手入れしないとってのはあるよね。プロなんだから。

一新された、現在のプロレス界を見て思うところはありますか。

長州 お客さんは何を求めているのか。プロはプロで競い合わなきゃいけないんだけど、一言で言うなら、レスラーみんなが同じ高い波には乗れないってことだよね、うん。

全員が全員スターにはなれない、と。

長州 無理だよ。(全員が)乗れてるってことは乗れてないってことだから。プロの世界では(ありえ)ないと思うね。乗れたら乗れたで、また誰かが(飛び抜けて)もっと高い波に乗らないと、この業界、盛り上がっていかないよね。多分、みんなが今ちょっとそこのところを勘違いしてるのかなって思うよね。

あと、これは個人的にお聞きしたかったことなんですが、長州さんが現役バリバリのころ、プロとしてではなく、一アスリートとして、例えば今現在主流になっているUFCやかつてのPRIDEのような総合格闘技が当時すでにあったとしたら…。

長州 (さえぎって)僕、三十四、五歳くらいだったらたぶん(世の中の)誰にも負けなかったっていう自負はあるね。うん、誰にも負けなかったでしょうね。間違いなく。その自負はありますよ。

しびれます。

長州 ただプロとしての世界を重んじた場合(総合に出場したいという)みんなとは違う方向でプライドを持ってたところがあったとは思うよね。

「名勝負数え唄」

「名勝負数え唄」

最後に“海外修業のOB”として現在、米国に住んでいる日本人読者に何かアドバイスをいただけますか。

長州 いやぁ、僕なんかが何か言える資格ないですよ。皆さん、僕以上にスゴイことをやってらっしゃるわけですから。英語から何からイチからいろんな苦労があっただろうしね。その上で、今現在活躍されてるわけだし。ただ、活躍できるってのはやっぱり健康であればこそだから。健康にだけは気をつけてくださいっていう、それだけですよ。うん、それが一番ですよね。

長州力 職業:プロレスラー

ちょうしゅうりき 専修大学時代にレスリングで活躍し、1972年のミュンヘン五輪に出場。翌73年12月、アントニオ猪木率いる新日本プロレスへ入門。74年8月8日、東京・日大講堂におけるエル・グレコ戦でデビューし、サソリ固めで勝利をおさめる。メキシコ遠征中に、エル・カネックを破り、UWA世界ヘビー級王座を獲得。帰国後、藤波辰巳(現・辰爾)との抗争劇がスタート。この藤波との一連の闘いは「名勝負数え歌」と称され、数々のベストマッチを生んだ。数々の伝説とともに、現在も新日本プロレスを中心に全日本プロレス、リアルジャパンプロレス、DRADITION、DRAGON GATEなど主要団体に精力的に参戦。2010年1月から藤波辰爾、初代タイガーマスクらと共に「LEGEND THE PRO-WRESTLING」をスタートさせる。
公式サイト:www.choshuriki.com/

 

〈インタビュアー〉
高橋克明(たかはし・よしあき)
専門学校講師の職を捨て、27歳単身あてもなくニューヨークへ。ビザとパスポートの違いも分からず、幼少期の「NYでジャーナリスト」の夢だけを胸に渡米。現在はニューヨークをベースに発刊する週刊邦字紙「NEW YORK ビズ」発行人兼インタビュアーとして、過去ハリウッドスター、スポーツ選手、俳優、アイドル、政治家など、400人を超える著名人にインタビュー。人気インタビューコーナー「ガチ!」(nybiz.nyc/gachi)担当。日本最大のメルマガポータルサイト「まぐまぐ!」で「NEW YORK摩天楼便り」絶賛連載中。

 

(2012年4月28日号掲載)

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