空手家 花澤明さんに聞く

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持って生まれた素質だけでチャンピオンになったヤツなんていない

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花澤明さん

国際総武館空手連盟総武館館長―、花澤明。現役時代、空手界にその名を轟(とどろ)かせ、引退後はMA日本キックボクシング連盟設立にも関わり、現在では多くのキックボクシングの世界チャンピオンを育成した花澤ジムの会長でもある格闘技界の伝説といわれた男。そんな館長に、空手との出合い、現在の空手界、そして世界チャンピオンの育て方など、千葉県袖ケ浦市の道場でお話を伺いました。(聞き手・高橋克明)

国際総武館空手道連盟総武館館長

―まずは館長と空手との出合いからお聞きしてよろしいですか。

花澤 高校1年の時ですねー。柔道と同時に始めまして。で、進学した城西大学には柔道の特待生として行ったんですけど、(現在、シカゴで三浦道場を運営している)三浦(美幸)先輩に「おまえ、空手に専念しろ」って言われて、そこからは空手一本です。武道を始めようと思ったきっかけはただ強くなりたかった。それだけですね。特別な理由はないんです。

―トレーナーとして、日本有数のチャンピオンを輩出している館長ですが、現役の時はどんな選手でしたか。

花澤 相手に勝ちたいっていう欲望はとにかく強い選手だったと思いますね。柔道やってる時も、寝技やって関節(技を)決めて、審判が見てない隙に相手に柔道着被せてぶん殴るとか、そういうこともやってましたから(笑)。もう殴ったほうが早いんじゃないかなってね。サミング(ボクシングで、相手の目をグローブの親指で突くこと)しても、耳引っ張っても(笑)。そういう気持ちが格闘技を始めた理由ですよ。スポーツとして始めたわけじゃないから。相手をやっつけるために、強くなるために、うん。

―館長が高校生の時はまだ空手の全国大会もなかったわけですよね。

花澤 当時はね。なので柔道の方で関東大会3位です。もう、45年くらい前の話ですけどね。極真(空手)に入ったのが昭和46(1971)年。大学生の時に全国でベスト8くらいかな。(対戦相手に)強い先輩ばっかりと当たっちゃって。ガチンコでも当時はなかなか先輩には勝ってはいけないんだよね。

―当時の空手の稽古は今では想像つかないくらい厳しかったと思います。昨今の体罰問題についてはやはり甘いと思われますか。

花澤 甘いっていうより、まぁ、格闘技ですから。殴られて、締められて、腕折られて、当然の世界ですから。バレー部やバスケ部なんていうのは分からないけど、柔道部で、監督にぶん殴られて問題になるのは、おかしいよね。だって格闘技だもん。足折られたって、首締められたって、全部、技の中にあるじゃないですか。いいとは言わないけど、それくらでないと強くはならないですよ。強い選手を育てたいなら、そんなことは言ってられないです。そのくらいの気持ちがないと人に勝つような人間は育てられません。僕の時代は練習中に死んだ先輩だっていますから。(当時は)焼き入れられるのは当たり前だから。今は違うと思いますけど、大山(倍達)総裁がまだまだ元気なころ、本部へ行ったりすると、先輩はかなり厳しかったですから。昔はある意味、上のいうことは絶対服従だったからね。なにを言われても「押忍(おす)!」って返事しかできない。

―やめたいと思われたことは…。

花澤 年中(笑)。もう毎日やめたい。ただ学校やめるわけにはいかなかったから。空手サボって大学だけ行って、先輩に見つかれば焼き食らっちゃうでしょ。ボコボコにされて死ぬか、学校やめるかどっちかしか残ってない。こりゃもうガマンして続けるしかないなって。それにね、当時の体罰は愛情がまだありましたよ。今の体罰はただの暴力なんでしょうね。心が入ってねえから。いい思い出とは言わないけど、いい経験だったんじゃないですか。
そばで聞いていた息子である花澤克典師範 私もすごく体罰はされてきましたけれど、いい経験だったとも思います。高校の時は一日50発殴られてました。トイレの木のサンダルで顔面蹴っ飛ばされたりするのも日常茶飯事です。「おまえなんか死ねっ」て言われながら。それでも返事は「押忍!」しか言えませんでした。でも逆に今、人を教える立場になって自分がそうされたからこそ、子供たちを怒る時にちゃんと説明して、納得させてますね。

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―その経験が生かされてか、館長のジムは稀(まれ)に見る数の世界チャンピオンを輩出しています。最初に道場を始めたきっかけは。

花澤 やることが他にないから(笑)。格闘技しかできない男だからね。

―ただ失礼な言い方かもしれませんが、都内から離れた郊外で、集まってくる選手の分母を考えると、ここからこれだけの数の世界チャンピオンが誕生したのはちょっと異常な確率ですよね。館長の指導方針にその秘密が隠れているのではないかと思うのですが。

花澤 いやぁ、特別なことは何もしてないですよ。練習が終わったら個人的には選手に厳しくしないのがうちのモットーですから。練習に来やすいっていうのはあるんじゃないですか。私生活まで束縛しないしね。それにね、東京の真ん中にあるより、こういうところの方が断然いいと思うんです。空気はいいし、ジムは広いし、好きなだけマラソンはできるし、誘惑もないし、何時になっても夜は練習できるし。田舎は遊ぶ場所なんてないから(笑)。より集中しやすい環境ではないかなと思います。

―それだけでは世界ランカーがをここまでの数、生まれないと思います。(笑)

花澤 あとは今でこそ珍しくないけど、まだ稀な時代にタイ人のトレーナーを呼んだりはしましたね。「対戦相手が日本人なのにタイ人を招へいするなんて邪道だ」って批判されたこともありましたけど。(笑)

―今では当たり前になってますね。やはり(彼らは)日本の選手にはないものを持ってますか。

花澤 まあっったく違いますよ。向こうの人は(試合で)家族を養うわけでしょ。日本はスポーツの域から出ない。技術だけじゃなくハングリーさが比べ物にならない。
花澤克典師範 私も全日本の選手時代には、タイの先生に教えてもらったのすごくプラスになりましたね。

―初めて世界チャンピオンが生まれた瞬間のことは覚えていますか。

花澤 そりゃあうれしかったですよ。自分がチャンピオンになるよりうれしかったですよね。ジムをやってる以上、プロ目的で入門する子は必ず全員チャンピオンにさせたいって気持ちなわけですから。

―一番うれしかったタイトルマッチはどれでしょう。

花澤 タイトルマッチもいっぱいやったなあ。やっぱり一番最初にチャンピオンになった鈴木秀雄の時ですね。そいつは、いじめられっ子でどうしようもないヤツで親に無理矢理連れて来られて。で、自転車で毎日15キロくらいのところから通わせて足腰鍛えさせて。ウエルター級のチャンピオンになって、ミドル(級)も取って。2階級制覇しました。

―入門した段階でチャンピオンの素質を持っているかどうか分かるものですか。

息子である花澤克典師範(左)と一緒に話を聞いた

息子である花澤克典師範(左)と一緒に話を聞いた

花澤 ここから出たチャンピオンで先天性に持って生まれてチャンピオンになったヤツなんて一人もいないですよ。全員、努力です。もし、素質があるとするなら一言で言うなら「真面目さ」ですね。例えば、元暴走族の暴れん坊が入門してきたとします。同時にガリ勉の末成(うらな)り瓢箪(びょうたん)みたいなのも入門したとする。最初はイキのいい前者がチャンピオンになりそうだなぁって思うでしょ。こいつ名前なんだっけっていうような末成り瓢箪君が真面目にコツコツ基礎をやったとします。そいつは急にぱっと強くなるね。派手なヤツは甘いんだね。チャンピオンになったヤツはみんな真面目でしたよ。だからこちらとしても手は抜けない。手をかければ、かけたなりに育つしね。手を抜いたら手抜きしたような選手になっちゃう。

―館長は選手育成だけでなく、試合のブッキングまで手掛けてらっしゃいますよね。藤猛をハワイから連れてきて田園コロシアムで島光雄とボクシングの試合をやらせたり。あの(アントニオ)猪木対ウィリー(・ウィリアムス)も館長が仕掛人の一人だと聞きました。

花澤 その何人かの一人ってだけですよ。極真会(国際空手道連盟極真会館)から独立した黒崎健時先生が「日本格闘術連盟」っていうのを創設されたんですよ。で、当時(漫画家の故・)梶原一騎先生が「四角いジャングル」って漫画を書いてたでしょ。それに登場するウィリーを猪木の対戦相手にぶつけようと。黒崎さんと梶原先生と一緒にアメリカまで迎えに行きましたよ。

―「熊殺し」の異名を持つウィリーは当時、アメリカで最強と言われたわけですよね。

花澤 それ聞いて思い出したけどね、こんなことがありましたよ。ちょうどウィリーが来たとき、鹿野山ってところからトラが逃げ出したんですよ。

―日本で、ですか?

花澤 (千葉県の)神野寺ってお寺でトラを飼ってたんです。デッカいトラで、それが逃げちゃってね(笑)。頭もこーんなあって、足もこんなぶっとくて。で、それとウィリーをやらせちゃおうと

―(笑)

花澤 逃げてる間、近所の番犬を何匹か食ってしのいでたらしいから、養鶏所行ってニワトリ100羽くらい買ってさ、その辺のスギの木にひっかけて、おびき出してさ。実際、県の猟友会に許可も取りに行って、(梶原一騎さんが起ち上げた)三協映画も撮影したいって、僕たちは木の上から撮ろうと。

―マジじゃないですか。(笑)

花澤 マスコミも大騒ぎだったんだから。逃げたトラと「極真の熊殺し」の対決って。

―で、館長は木の上から見てる。(笑)

花澤 そうしたら、土壇場で「館長、無理だよー」って。

―そりゃ、そうですよ(笑)。さすがのウィリーも…。

花澤 いや、いや、ウィリーはやる気になってたの。無理って無理って言ったのは猟友会の人たちで「あんたらバカなんじゃないか」って。(笑)

―昔の格闘家の話を聞くとロマンがありますね。

花澤 昔は選手の持ってるオーラ自体が違ったね。今はそんな選手を育てようと、厳しくするとやめちゃうから。でもだからって、練習を甘くするって方針は私とは合わないですね。つらいからこそ、乗り切って、鍛えられるわけじゃないですか。

―空手は現在でもプロ化もされてなく、五輪競技でもない。日ごろの稽古がどんなに厳しくても見返りに関しては恵まれた環境とは言えないですよね。

花澤 空手に限らず格闘技ってもともとテレビや雑誌のようなメディアにのせるために生まれてきたわけじゃないんです。己を鍛えるために、技術を磨くために試合をするわけじゃないですか。この道を通した精神づくりっていうのかな。人間形成を目的としてやってるから、それに伴って修行していく。心の修行ですよ。だって強くなるためだけだったら、いまさら空手なんて必要ない。ピストル、ポンっと撃ちゃあ終わりだもん。それに空手をプロ化にするのは無理でしょう。流派がありすぎるし、流派によってルールも違う。格闘技の観客はKOシーンが見たいから会場に足を運ぶわけだけど、空手は顔面が禁止されてる。だからそこに金を絡ませてプロ化するのは無理があると思いますね。この先も空手はアマチュアでいくべきだと思います。以前、プロに少し近づけたのが石井(和義)君ですよ、正道会館(K|1)の石井館長。正道会館と一緒に(対抗戦を)やったことあるんですよ。で、全然うちの方が強かったわけ。正道会館はみんな、うちに負けちゃって、これじゃあいけないってんで、彼が世界中駆け回って強いヤツを連れてきたのが「K|1」の始まりです。だから当初はとにかく体のデッカいヤツを連れてきて、技術が伴わないから、(逆に)KO率が高かったでしょ。

―派手なKOシーンが続出して、一般人から見ると人気が出るわけですね。

花澤 大振りして当たれば、のびる(気絶する)。ところが5年、10年とやるうちに技術が向上してきてKO率が少なくなった。やっぱりプロスポーツ競技にするには無理がありますね。やはり空手道という道を追求していくしかないんじゃないですか。

―最後にニューヨークで頑張っている日本人に何かメッセージをお願いします。

花澤 一度ね、大山(倍達)先生からホワイト・プレインズで道場出せって命令されたこともあるんです。ところが、いろんな事情があってこっち(日本)で結婚しちゃったんですね。で、所帯持っちゃったから、日本で道場やろうと。もしあのまま行ってたら今ごろアメリカ人と結婚して向こうに住んでますよね。人生変わってると思います。あの時ニューヨークに行ったとしたら、日本にはもう帰ってきてないでしょうね。今いらっしゃる方には、アメリカで骨を埋める覚悟で、とにかく頑張れって言うしかないですね。

 

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〈profile〉 はなざわ あきら 1953年生まれ。空手家で、国際総武館空手道連盟総武館館長、MA日本キックボクシング連盟花澤ジム会長・同連盟副理事長。新格闘術に参加するために極真会館から独立し、総武館と花澤ジムを発足(千葉県袖ケ浦市)。MA日本キックボクシング連盟設立にも関わり、連盟内で史上最多の各階級王者を生み出した。

 

〈インタビュアー〉
高橋克明(たかはし・よしあき)
専門学校講師の職を捨て、27歳単身あてもなくニューヨークへ。ビザとパスポートの違いも分からず、幼少期の「NYでジャーナリスト」の夢だけを胸に渡米。現在はニューヨークをベースに発刊する週刊邦字紙「NEW YORK ビズ」発行人兼インタビュアーとして、過去ハリウッドスター、スポーツ選手、俳優、アイドル、政治家など、400人を超える著名人にインタビュー。人気インタビューコーナー「ガチ!」(nybiz.nyc/gachi)担当。日本最大のメルマガポータルサイト「まぐまぐ!」で「NEW YORK摩天楼便り」絶賛連載中。

 

(2014年2月22日号掲載)

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