倫理研究所理事長・丸山敏秋「風のゆくえ」 第150回
今年の日本の夏は例年と違っていた。危険なほどの猛暑が長くつづいたり、台風の動きが異様に遅かっただけではない。軍事や戦争を声高に非難するテレビ番組や新聞雑誌の記事が、トーンを落としていた
日本の夏といえば、「反戦」そして「慰霊」の季節だった。昭和の大戦の敗北を国民が知らされ、それが祖先を迎えるお盆の時期と重なったためである。しかし年月が重なると、戦没者への慰霊の意識は薄くなり、レジャーに興じる国民が増えていった。他方、「反戦の夏」は健在だった。それが今年になって様変わりしたのは、明らかな理由がある。
振り返ると、安倍晋三内閣がもっとも激しく糾弾されたのは、安全保障関連法案が国会で審議されていた2015年頃だった。国会議事堂前は連日シュプレヒコールの嵐となり、集団的自衛権の行使は憲法違反だと日弁連は宣言した。
法案が成立した後も反対勢力はくすぶりつづけたが、昨年のロシアによるウクライナへの軍事侵攻で、ぶっ飛んでしまった。ウクライナのような核廃棄国をロシアが易々と侵略したのだ。台湾や沖縄が第二のクリミアになりかねないと戦慄が走った。
そして昨年12月に、岸田政権はいわゆる「安保3文書」を閣議決定する。その裏付けとなる防衛費の倍増を目指し、今後5年間の総額で43兆円程度とすることを決めたのに対して、さほどの反対はなく、かえって政府の支持率は上がった。
わが国が反撃能力(いわゆる敵基地攻撃能力)を持つことに対しても、なんと朝日新聞の世論調査ですら56%の人が賛成と回答した。
2月4日付の『産経新聞』には驚くべき記事が掲載された。アメリカ中央情報局(CIA)のウィリアム・バーンズ長官がジョージタウン大学で講演し、「アメリカが得ている確かな情報では習近平は2027年までに台湾侵攻の準備を整えるよう軍部に指示を出した。習氏の台湾統一への野心を過小評価すべきでない」と発言したのである。同長官の情報は信頼できると国際的な定評がある。昨年はプーチンのウクライナ侵略を的確に予測し、責任をもってその情報を伝えた。ともあれ中国の台湾侵攻があれば、日本が巻き込まれることは火を見るよりも明らかである。
そのような状況のもとで、日本国民の安全保障に対する意識が大きく変わり、夏を迎えたのである。
ただし、国民の心が殺伐としてきているのではないかと気になる。4月に南カリフォルニアを訪れたとき、最近のアメリカ人の心が荒んでいると聞いた。日本人はそこまではないと思ったが、夏に向けて殺傷事件が頻発したり、頭部を切断する事件まで発生すると、身が縮んでしまう。レストランで大声で会話したり、電車の中で傍若無人な振る舞いをする若者が目につく。
世の中の空気は変わりやすいものだが、天候気候のような荒々しさが、人の心にまで乗り移ってはいけない。風の行方を的確に読みながら、国家も個人も揺るぎない基本方針の下に、落ち着いた行動ができるようでありたい。
(次回は10月第2週号掲載)
〈プロフィル〉 丸山敏秋(まるやま・としあき) 1953年、東京都に生まれる。筑波大学大学院哲学思想研究科修了(文学博士)。一般社団法人倫理研究所理事長。著書に『「いのち」とつながる喜び』(講談社)『至心に生きる 丸山敏雄をめぐる人たち』(倫理研究所刊)ほか多数。