〈コラム〉百世の安堵

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倫理研究所理事​長・丸山敏秋「風のゆくえ」 第174回

紀州和歌山を出身とする偉人は幾人もいる。──郷里の島にラブレターを出した明恵上人、もとは北面の武士で卓越した歌人の西行法師、世界初の全身麻酔で手術を成功させた華岡青洲、博覧強記の博物学者南方熊楠、世界の難問を三つとも1人で解いた天才数学者の岡潔、そして世界のパナソニックを生み出した松下幸之助…。

ほかにも紀州にはたくさんの偉人がいるが、明治の実業家の濱口梧陵(はまぐち・ごりょう)の名を知る人はそう多くない。今年の7月に和歌山県倫理法人会の周年行事に参加したとき、式典の式辞で濱口の名を出したところ、さすがに県内の人たちは皆うなずいていた。

濱口梧陵は文政3(1820)年に、和歌山県内中央部の広川町で、分家となる濱口七右衛門の長男として生まれた。実家は遠く千葉県銚子で「ヤマサ醤油」を営んでいる。梧陵は12歳の時に本家の養子となり、7代目濱口儀兵衛を名乗って事業を継ぐこととなった。

安政元(1854)年、濱口梧陵が広村に帰郷していた時、突如として大地震が発生し、紀伊半島一帯を大津波が襲う。濱口は稲むら(稲束を積み重ねたもの)に火を放ち、その火を目印に村人を誘導して、安全な場所に避難させた。

その逸話は後にラフカディオ・ハーンにより「生き神様(A Living God)」という作品になって発表された。国内では「稲むらの火」と題され、小学国語読本にも掲載される。なんと1993年頃には米コロラド州の小学校で、 “The Burning of The rice Field “が副読本として使われたという。

筆者は十数年前に新しい道徳教科書のパイロット版を仲間達と制作したとき、濱口梧陵の存在を知って非常に感銘を受けた。

濱口の偉業は村人を安全地帯に導いただけではなかったからだ。故郷は津波で変わり果てている。疲弊した村人1400名の今後の生活をどうしたらいいか──。彼は被災者用の小屋を建て、近くの庄屋に懇願して年貢米50石を借り受け、みずからも玄米200俵を拠出した。農機具や漁業道具等も提供する。すべて私財を投じてだった。

それだけではない。いつかまた襲う津波から村を守るべく、長さ650メートル、幅3メートル、高さ5メートルという壮大な防波堤(広村堤防)の築造にも取り組む。この工事に村人を雇用することで、貧窮した彼らに収入を得さしめた。

大正12(1923)年に高浪が襲来した時、この防波堤は大いに効果を発揮したという。故郷を救った濱口の行動は、災害列島に生きる日本人にとって貴重な教訓となった。2018年5月、広川町の防災遺産「百世の安堵」が日本遺産に認定される。その名は濱口梧陵の「築堤の工を起して住民百世の安堵を図る」から付けられた。

津波被害の復興後も濱口は活躍する。明治12(1879)年には和歌山県議会初代議長に選任され、民主主義を広める活動を展開した。ところが6年後、長年の願いであった欧米への視察途中、ニューヨークで客死したという。

道徳心を涵養するには、公のために尽くした偉人を教えるのが一番である。

(次回は10月第2週号掲載)

〈プロフィル〉 丸山敏秋(まるやま・としあき) 1953年、東京都に生まれる。筑波大学大学院哲学思想研究科修了(文学博士)。一般社団法人倫理研究所理事長。著書に『「いのち」とつながる喜び』(講談社)ほか多数。最新刊『これが倫理経営─ダイジェスト・倫理経営のすすめ』(倫理研究所刊)。

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