〈コラム〉天皇と国民の総意

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歴史力を磨く 第36回
NY歴史問題研究会会長 髙崎 康裕

今年は御代替わりを迎え、皇位の継承が行われる。皇位継承は皇室典範に規定されているが、その法源は歴代の皇位継承という大事の範例をなしてきた不文の伝統である。この伝統に法的規範性を求めるという考えは、それが「国民の総意」であるという理念に支えられている。

現行憲法の第一条にも、「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であって、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く」と書かれている。この文中の「天皇」と「国民の総意」については、次のように解説をされてきた。
「天皇の地位も、主権の存する国民の総意にもとづくとされます。従って国民の意思が変われば、─国民の意思は決して永久に変わらないものではありません─、天皇制もいつなんどき廃止変更されないものでもない、という理屈になります」(『憲法入門』宮沢俊義)

この説明では、「国民の総意」とは、現在の時点で把握できる国民世論と同様のもののように読める。それはあたかも、現在の選挙権有権者の最大多数が国民の意志を表すというような理解でもある。しかし日本の国体、即ち「国のかたち」を考える時、そのような理解で万世一系の皇室伝統や天皇存続の可否を国民投票にかけ、その維持や廃止を決めるというようなことは考えられないし、そこには重大な誤謬があると思われる。

何故ならば、その「総意」の担い手である「国民」とは、現在の選挙有権者ということではない。それは、日本国家が成立して以来の日本国民であった全ての人々、即ち「縦軸の時間的次元で捉えられる国民」なのだ。その場合の「国民の意志」とは、現在の国民が過去から引き継いで背負っている先祖の人々の意志の総体であり、その歴史の重みを考えれば、「国民の総意が変われば」というような論理に容易に与することは出来ない。

皇位の継承は、二千年以上も継承されてきた大事である。そして父方を辿れば2679年前の神武天皇に遡れるという系譜が圧倒的に美しく、その伝統の美が日本を日本たらしめてきた。建国から現在まで、皇室の伝統が二千年以上も厳然と受け継がれてきたということは、単に伝統を墨守するだけでなく、時の人々がそれを命がけで守り続けてきたからである。その先祖の人々の叡智や努力を、今を生きる人間の意思なるもので改変し廃せると考えるのは、あまりにも傲慢と言えよう。

天皇は、常に国民の幸せを祈られてきた。「国民一人ひとりの幸せ」を、日々命を懸けて祈る、これが天皇である。そして国民の側も天皇を慕いながら、一体となって歩んできた。この「君民一体」こそが、日本の伝統であり統治の姿である。

伝統の継承と革新の中で、無価値なものは時間の流れの中で淘汰され、真に価値あるものが守られてきた。そして長年守られてきた我が国の中心に位置する価値、それが二千年にも亙る皇室の存在、そして天皇と国民の絆であることは、日本人にとっては疑いようがない。皇室を全力で守りその弥栄を祈ること、それが日本国家の永続にもつながるということを、この歴史的な年に生きる私達も忘れてはならない。

(次回以降は同研究会ウェブ=www.nyrekishikenkyu.org=で掲載)

〈筆者プロフィル〉髙崎 康裕(たかさき・やすひろ)
ニューヨーク歴史問題研究会会⻑。YTリゾリューションサービス社⻑として、日系顧客を中心とした事業開発コンサルティング、各種施設の開発企画・設計・エンジニアリング・施⼯管理業務等を⼿掛けている。シミズディベロップメント社⻑、Dillingham Construction代表取締役、東北大学特任教授歴任。現東北大学総⻑特別顧問。著作に「建設業21世紀戦略」(日本能率協会)、「海外業務ハンドブック」(丸善)、 「海外プロジェクトリスクへの対応」(エンジニアリング振興協会)など多数。

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