〈コラム〉幸運な先祖の子孫

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倫理研究所理事​長・丸山敏秋「風のゆくえ」 第109回

どんな怪力の持ち主でも、ゾウには負ける。走力はウマに、泳ぎはイルカに、嗅覚はイヌに、人間は遠く及ばない。ノミのようにも跳べず、スズメほどにも飛べない。文明の利器を手放した人類は「裸のサル」でしかない。

そして人間は、超ミクロのウイルスにも太刀打ちできない。今年の新型コロナウイルスは世界中を大混乱に陥れ、ついに東京五輪も前代未聞の延期に追い込まれた。感染力や発症の程度は季節性のインフルエンザとさほど違わないのに、「新型」という未知のウイルスに人々は恐れをなし、混乱に拍車がかかった。

インフルエンザ、天然痘、ポリオ、エイズ…。ウイルスは人間に病気をもたらし、殺してしまうこともあるから、そのイメージはどうしてもマイナスとなる。近年ではコンピューターに侵入して悪さをする「ウイルス」の感染拡大も脅威となっている。

地球上に生命が誕生した頃から、ウイルスも存在していたらしい。状況に応じて変異するから、無数の種類がある。人間にとって病原性のウイルスは悪玉なのだが、何の病気もおこさない温和なウイルスもいる。たとえば、人の腸の中に宿っているエコーウイルス群の、一部は病原になるが、大部分は悪さをしないという。

では、善玉はいるのかどうか。遺伝子治療に使用されるレトロウイルスなどは、ある種の遺伝病を治療してくれるから善玉と言えようか。もとより善玉も悪玉も、人間が勝手に名づけたにすぎない。ウイルスといえばマイナスイメージばかり先行するけれど、生命の保全に貢献している未知のウイルスもきっといるのだろう。

それにしても新型コロナウイルスの世界的感染拡大で、奇妙なのは、日本の感染者や死者が少ないことだ。中国が武漢を閉鎖した3週間ぐらい後の2月中旬に、日本でも感染者が現れた。欧米で始まったのはそれより3週間ほど遅く、急拡大してパニックを招いた。しかし日本は感染者の人口比が欧州諸国よりひと桁も少なく、緊急事態宣言も発せられていない。

検査が制限されているために、感染者が過少に出ているのは確かであろう。その検査制限も一つの対策である。病人や高齢者は手厚く保護した上で、一般人は感染しても約8割は軽症なので、「集団免疫」を広げれば終息は早まる。臆病な人はそんな対策は甘いし危険と批判するが、自粛強化が長引けばかならずや大不況に陥り、経済崩壊の危機が高まる。倒産企業が増えれば、そのダメージははかりしれない。各企業はすでに青息吐息になっている。

なんとやっかいな事態であろう。感染の防止と経済危機の回避。あちらを立てればこちらが立たず、両方立てれば共倒れとなる。このトレードオフの難題を前に、全世界が結束して英知をふりしぼるしかない。

これまでも人類はウイルスや病原性微生物によって絶滅されることなく、果敢に生き延びてきたことに思いを馳せよう。ジャーナリストの石弘之さんが『感染症の世界史』に書いているように、われわれは過去に繰り返されてきた感染症の大流行から生き残った「幸運な先祖の子孫」なのである。

(次回は5月第2週号掲載)

〈プロフィル〉 丸山敏秋(まるやま・としあき) 1953年、東京都に生まれる。筑波大学大学院哲学思想研究科修了(文学博士)。社団法人倫理研究所理事長。著書に『「いのち」とつながる喜び』(講談社)、『ともに生きる』(倫理研究所)など多数。

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