〈コラム〉「競争」の表と裏

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倫理研究所理事​長・丸山敏秋「風のゆくえ」 第149回

幕末に洋行した福沢諭吉は、それまでに習得したオランダ語を捨てて英語に切り替えた先覚者である。彼はチェーンバーズの『経済論』を1冊持っていた。
幕府の御勘定方の有力な人(今でいえば財務省の要職にある役人)に何かの話のついでにその経済書のことを語ると、目次だけでも知りたいと希望するので、翻訳したものを見せた。
役人はしきりに感心しながらも「競争」という知らない用語を見咎めた。福沢は「competition」という原語を、いろいろ考えた末に「競争」と訳していたのだ。「争」という字が穏やかでない、と役人は言う。「競争」とはどんなことかと尋ねるので、こう答えた。
「どんな事って、これは何も珍しいことはない。日本の商人のしている通り、隣で物を安く売るといえばこっちの店ではそれよりも安くしよう。また甲の商人が品物をよくするといえば、乙はそれよりも一層よくして客を呼ぼうとこういうことです。…互いに競い争うて、それでもってちゃんと物価も定まれば金利もきまる。これを名づけて競争というのでござる」
(『福翁自伝』講談社文庫版)
しかしその役人は「争いという文字が穏やかでない」を繰り返す。役人特有の事なかれ主義と幕府の頑迷さに、若かった福沢諭吉は呆れかえったという。
文明開化の明治になると、競争の精神に基づく経済システムが日本にも導入され、商人も企業もしのぎを削っていく。競争原理が健全にはたらくと、皆が豊かに潤い、社会全体が発展していく。けれども競争の裏側に潜む自己中心の闘争原理が表に出ると、企業のモラルは著しく低下し、弱肉強食の殺伐とした世の中になってしまう。
つい最近、日本の中古車販売大手ビッグモーターで、組織ぐるみの保険金不正請求が判明した。外部の弁護士で構成する特別調査委員会がまとめた報告書によると、ゴルフボールを入れた靴下で車体を叩いたり、ドライバーで車体に傷を付けたりしていた。不要な部品交換などもあり、損害保険会社に高い料金を請求していた。なんという悪質な行為であろう。
同社の整備工場から無作為で抽出した約3000件の修理のうち、なんと1000件以上で不適切な行為の疑いが見つかったのだという。保険金の水増し請求額は1台あたり4万円近くにのぼっていた。
社員には厳しいノルマが課せられていた。ノルマを達成できない工場の責任者は厳しく責められる。罵声を浴びながら追い込まれたと、取材に応じた元社員は振り返った。降格人事も日常茶飯事で、「経営陣に忖度する、いびつな企業風土が醸成された」と報告書は指摘している。
同社の経営陣は、株主の利益を最大限に優先する強欲資本主義に巻き込まれ、闘争原理に身を委ねてしまい、不正をただすだけの勇気も気力も失っていたのであろう。
社会的な信頼を裏切り、保険金を不正請求した同企業には、厳正な処分が下されるに違いない。しかしながら健全な競争原理がはたらかない社会では、類似の事件が後を絶たないであろう。
(次回は9月第2週号掲載)

〈プロフィル〉 丸山敏秋(まるやま・としあき) 1953年、東京都に生まれる。筑波大学大学院哲学思想研究科修了(文学博士)。一般社団法人倫理研究所理事長。著書に『「いのち」とつながる喜び』(講談社)『至心に生きる 丸山敏雄をめぐる人たち』(倫理研究所刊)ほか多数。

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