〈コラム〉医は意なり

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倫理研究所理事​長・丸山敏秋「風のゆくえ」 第69回

中国の後漢の郭玉という名医が「医は意なり」の名言を残した。医術の妙は施術者の主観や技量によるので、言葉や文字で表現できないことを意味する。隋唐の頃の許胤宗という名医も「医は意なり」を強調し、書物を著さなかった。

江戸時代の儒学者で医者の亀井南暝はこんな歌を詠んでいる― ―「医は意なり意というものを得とくせよ手にも取れず画にもかかれず」(『古今斎いろは歌』)。語呂合わせではないが、医術は「意術」である。教科書どおりでなく、自分の力量に応じて臨機応変に処置しなければならない。現代の医療は「医術(意術)」から離れてきたように思うが、どうだろうか。

中国古典の『荘子』は、日本の文学を含めた技芸の世界に大きな影響を与えた。そこにはあるがままの自然を尊び、ことさらな人間の作為を退ける思想が貫かれている。たとえば松尾芭蕉は『荘子』を愛読し、偉大な自然の力(造花の力)をわずかな文字数の句で表現しようとした。

その『荘子』の天道篇に、輪扁という人物の話がある。彼は聖賢の書物を大事そうに読む人々に「古人の糟魄(かす)を読んで何になろう」と批判してこう言った――「車輪を作る技術は、手に得て心に応ずるものだ。口で言うことはできず、自分の子にすら伝えることはできない」と。似たような話が他にも『荘子』にはたくさんあり、先の「医は意なり」に通じている。

「医者の匙かげん」も同じような意味である。薬物の種類と量を、匙ひとつで微妙に調合するところに、医師の力量がある。けっしておざなりとかデタラメの意味ではない。検査データにばかり頼り、目の前の患者を診ない「三分診療」の医師の方が、よほどおざなりではないか。
かつて筆者が東洋医学を学んでいた頃に師事した間中喜雄博士は、文筆も達者で、「医は意なり」のパロディとしてこんなことを書いておられた。――“医は「威」なりと高圧的で、「異」なりとばかりに特権をむさぼる。手に負えない患者には「委」なりと他の医者にまかせ、あげくの果てには「稲荷」にたよる”。

近代医学に裏付けられた医療の発達は目覚ましい。しかし、病気で苦しむ人がなんと多いことか。がんをはじめ克服されていない難病はいくつもあり、新たな疾患まで生まれている。現代医療を否定するつもりなど毛頭ないが、欠けている面が多々あるだろう。その一つが「医は意なり」という技芸の本質を言い表した要素である。

「意」は「こころ」も意味する。「医の術」は人間の微妙な心の領域も含み込んでいる。間中医博は『むんてら― ―医者と患者』という本も出しておられた。「むんてら」とはドイツ語のMund(口)とTherapie(治療)の合成語で、医師が病気の状態や治療の内容、今後の見通しなどを患者に説明することをいう。間中医博はさらに医師の言葉による治療ととらえ、軽妙に患者に語りかけては喜ばれていた。

事は医療ばかりではない。機械を利用して機械に頼らず。マニュアルは参照しても囚われず。人間を尊重して血の通い合う仕事をしていきたい。

(次回は1月21日号掲載)

丸山敏秋

〈プロフィル〉 丸山敏秋(まるやま・としあき) 1953年、東京都に生まれる。筑波大学大学院哲学思想研究科修了(文学博士)。社団法人倫理研究所理事長。著書に『「いのち」とつながる喜び』(講談社)、『「いのち」の輝き』(新世書房)など多数。

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