〈コラム〉自分を変えればよい

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倫理研究所理事​長・丸山敏秋「風のゆくえ」第68回

先般、日本の出版界である事件が起きた。大手のKADOKAWAが、7月に発刊した自己啓発本『新訳 人を動かす』を絶版とし、初版3万部を回収していたことが判明したのだ。著者のデール・カーネギーの死後に、遺族らが加筆などをした新版を、著作権の保護期間が切れた旧版と誤って翻訳出版したためだという。

驚いたのは、この本がたとえ新版であろうと、今でも出そうとする出版社が日本にあることだ。80年も前の本である。原題は『How to Win Friend and Influence People』。アメリカで発売と同時にベストセラーとなり、作家で社会教育者のデール・カーネギーは一躍名声を博した。著者が没するまでに31の言語に訳され、1500万部を売り上げる。そして没後も売れつづけ、創元社から出た日本語訳の累計発行部数だけでも500万部を超えているという。

本書の何が、それほど読者を引きつけてきたのか。そこには時代が移っても変わらない人間心理の大原則が示されているからであろう。それはいったい何か。

カーネギーによれば、人を動かす秘訣は「この世に、ただ一つ」しかない。そしてこの事実に気づいている人は甚だ少ない。その秘訣とは、相手に「みずから動き出したくなる気持を起こさせること」である。思わず「なぁんだ」と言いたくなるが、肝心なのはここからだ。

相手の胸にピストルを突きつけて、腕時計を差し出させることはできる。従業員に首を切るぞと脅して、協力させることもできる。しかし、こういうお粗末な方法には、つねに好ましくないはね返りがつきものだ。本当に人を動かすには、相手の欲しているものを与えるのが、唯一の確実な方法なのである。

さて、財貨・地位・権力・健康・安寧等々を人は欲する。そうした対象は自力で獲得できる可能性がないわけではない。他方、万人が渇望しながら、めったに満たされることがなく、自力では絶対に獲得できないものがある。もし与えられたら、人はまちがいなく動く。それは何か。

カーネギーの表現で言うと“自己の重要感”である。他人から自分の存在を認められることだ。こればかりは他人が判断することなので、自力ではどうにもならない。そしてだれもが得たいと欲している。それを与えてくれる人から指示されれば、喜んで受けて動くだろう。「もし、我々の祖先が、この燃えるような自己の重要性に対する欲望を持っていなかったとすれば、人類の文明も生まれてはいなかったことだろう」とまでカーネギーは言い切った。

相手が子供であろうと、人を動かし、やる気を起こさせるそんな妙法があるのに、活用されているだろうか。よく知られてはいても、実行されていないのではないか。相手を認めるよりも、自分の鋳型に相手を押し込めるから、欠点や不足ばかりが目につく。自分を磨く努力を怠っているくせに、ちっとも認めてもらえないと嘆く。

結局は自分が変わらなければ、相手は決して変わらないということだ。カーネギーの不朽の名著は、これからも売れつづけるだろう。

丸山敏秋

〈プロフィル〉 丸山敏秋(まるやま・としあき) 1953年、東京都に生まれる。筑波大学大学院哲学思想研究科修了(文学博士)。社団法人倫理研究所理事長。著書に『「いのち」とつながる喜び』(講談社)、『「いのち」の輝き』(新世書房)など多数。

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