〈コラム〉ルーツとルーツの対話

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丸山敏秋「風のゆくえ」 第37回

先月の11日から14日にかけて、伊勢市の皇學館大学で開かれた日仏シンポジウム〈ルーツとルーツの対話〉に参加した。今から40年も前に、高名な作家で文化大臣も務めたアンドレ・マルローが「両極端ともいえる日本とフランスで文化のルーツを探る対話が行われたら、そこから何が現れ出るであろうか」と京都で語ったことが、このシンポジウムの起源である。初めての開催となる今回のキーワードは「霊性(深い精神性)」であった。
宗教・哲学・歴史・神話・芸術等々の専門家や実践者が日仏双方から12名ずつ、それぞれの立場からの発表を繰り広げ、質疑を交わした。筆者も社会教育活動の実践者として招かれ、発表したのだが、どこまで理解されたか心許ない。神道や仏教を基調とした日本文化と、カトリックの信仰をルーツとするフランス文化が、本格的な対話を交わすには、大きな壁が横たわっていると痛感させられた。
しかしどの民族のルーツにも存在する「霊性」をめぐる対話は、今後も様々な形で交わされていく必要がある。このままグローバリズムが広がっていけば、人々は国や民族のルーツを忘れ、伝統から切り離され、風にさらわれる木の葉のごとく散り散りの、行方知れずになってしまうだろう。文化のルーツとは、異なる文化との対話を通してこそ自覚できるのだ。
日本人の霊性は、人知人力を超えた大いなる自然の生成力を畏れ敬うことに由来する。そこに唯一の絶対神(ゴッド)は存在しない。万物万象にカミが宿り、仏性が有ると考える。それを西洋の宗教学は低次元なアニミズムと扱うが、一方的な見方にすぎない。ギリシアのパルテノン神殿は廃墟と化したが、伊勢神宮は今でも国民の霊性の一大拠点として生き続けている。だから「世界遺産」には登録しない。祖先をカミと崇め、最新設備の工場を建てるときにも入念な地鎮祭を行い、針でも人形でも供養するのが、日本人の霊性の発露である。
近代化を遂げた成熟社会には、ニヒリズム(虚無主義)が広がっていく。第一次大戦後のヨーロッパがそうだった。シュペングラーの『西洋の没落』が不安をもたらし、ニーチェの「神は死んだ」が虚無感を煽り立てた。第二次大戦の勃発でニヒリズムはかき消されたが、すでに戦後も70年近くが過ぎ、再び密かに蔓延しつつある。アメリカでも、日本においても…。
戦争の悲劇を繰り返すことなく、グローバリズムやニヒリズムから逃れるには、国や民族の文化のルーツの自覚が不可欠であろう。各人の生き方も同様である。それには「自分とは何か?」ではなく、「何が自分なのか?」と問うのだ。
すると、この自分を形成してきた親祖先の存在や、母国語や風土の自然が立ち現れてくるだろう。そうした自分のルーツを再認識するとき、アイデンティティーが確かなものになり、心の内に眠っていた霊性が目を覚ますようになる。
「霊性の目覚めがなければ21世紀はありえない」――マルローはそう確信していたという。この言葉の重さを、しっかりと奥歯で噛みしめたいものである。
(次回は5月第2週号掲載)
maruyama 〈プロフィル〉 丸山敏秋(まるやま・としあき) 1953年、東京都に生まれる。筑波大学大学院哲学思想研究科修了(文学博士)。社団法人倫理研究所理事長。著書に『「いのち」とつながる喜び』(講談社)、『今日もきっといいことがある』(新世書房)など多数。

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