〈コラム〉「イル」の精神

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倫理研究所理事長・丸山敏秋「風のゆくえ」 第41回

公正な判断を下すのは難しい。ルールががっちり決められているスポーツですら、審判の判定を巡ってしばしばトラブルが起こる。ましてや歴史認識となると、見る側によって解釈が真反対になる場合がある。証拠をコツコツと積み上げる地道な研究が、正しい判断を導いてくれる。
最近、モンゴル帝国に関して驚くべきことを知った。人類史上初の「世界帝国」を築き上げたのがモンゴルである。英雄チンギス・カンが現れてから、東は朝鮮半島から西は現在のヨーロッパ東部、北はロシアから南はインドから南アジアに及ぶ広大な帝国が築かれていった。それをもって本当の意味の「世界史」が始まる。
鉄道も自動車もないあの時代に、どうして百年足らずで世界帝国が築けたのか? この謎に答えてくれたのは、京都大学の杉山正明教授である。語学の天才である彼は、漢語やモンゴル語だけでなく、ペルシア語で書かれた『集史』をはじめ、パスパ文字の碑文等々を駆使して、モンゴル帝国史に新たな視点を見出した。
まず、モンゴル民族に対する思い込みや偏見を払拭しなくてはならない。モンゴルといえば頭ごなしに「殺戮」「破壊」「略奪」をイメージするのは、襲われた側からの見方である。杉山教授によると、モンゴルによる大虐殺などほとんど確認できず、そもそも彼らは戦闘には強くなかった。やむなく実戦に踏み切った場合、モンゴル軍が敗れていることのほうが多い。もともと遊牧民族は、人命を損なう武力戦争を極力避けようとしたのだ。
では、彼らは何で戦ったのか。指導者どうしの論戦である。モンゴルは情報戦・組織戦を重視し、戦う前に敵方が自壊するか投降するように誘導した。まるで黒田官兵衛が得意とした戦法ではないか。
さらにもう一つ、モンゴルの戦法には特色があった。敵方の集団や部族を屈服させたとき「イルとなる」と表現する。それは「仲間となる」を意味するのに、従来は「降伏させる」とか「服属させる」と訳されてきた。近代概念に毒された誤訳である。誰であれ、自分たちとおなじ「仲間(イル)」になれば、もう敵も味方もない。このような融通無碍な集団理念が、モンゴルの急速な拡大の核心にあったのだ。
筆者の属する倫理研究所では、チンギス・カンの陵墓からほど近い中国内蒙古自治区の沙漠で、植林活動を始めて15年になる。9000年ほど前、沙漠地帯は大草原だった。ところが沙漠は今でも年々拡大している。パウダーのような砂は偏西風に乗り、有害物質を伴って日本にまでやってくる。
しかし木を植えて砂の動きを止めれば、灌木や草が生え、農業も出来るようになる。恩格貝という名の緑化基地は、日本からの植林ボランティアが大勢訪れ、美しい緑のオアシスに変貌した。
去る7月6日に沙漠緑化15周年の記念行事を現地で行ったとき、筆者は訴えた。かつてのモンゴル民族の「イル」の精神を発揮して、沙漠地帯に「緑のシルクロード」を創造しよう、と。やらなければ何もできない。仲間たちとの真摯な努力の積み重ねは、奇跡すら起こせるのである。(次回は9月第2週号掲載)
maruyama 〈プロフィル〉 丸山敏秋(まるやま・としあき) 1953年、東京都に生まれる。筑波大学大学院哲学思想研究科修了(文学博士)。社団法人倫理研究所理事長。著書に『「いのち」とつながる喜び』(講談社)、『今日もきっといいことがある』(新世書房)など多数。

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